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多分、これが2024年賞レース独占だろう「ルックバック」

今回は、話題の映画「ルックバック」について少し書いてみたいと思う。

凄く評価の高いアニメだよね。
というか、これは原作がもともと神作品らしく、「このマンガがすごい!2022オトコ編1位に選ばれてるわけで。
全144頁、読み切り全1巻の漫画がここまで高く評価されるのは珍しいことなんじゃないか?

原作者は「チェンソーマン」でおなじみ、藤本タツキ先生。
といっても本作は「チェンソーマン」と全く作風は異なり、どこか地方都市に住むオンナノコの2人がコンビで漫画を描いていく系の物語なんだ。
バクマン」みたいなやつ?
・・いや、あれよりはもっと叙情的というか、文学的な感じ。

こうして漫画家が「漫画を描く若者」を描くパターンって、いわば私小説を書く小説家みたいなもんである。
それこそ大場つぐみ&小畑健、そして藤本タツキ級に大ヒットを飛ばした者にのみ与えられる、いわば勝者の特権、ご褒美みたいなものだろうか?
きっと、売れた者だけが編集から「描きたいもの描いていいよ」とようやく言ってもらえるわけで、その時「自分自身」を描きたいと考える人も少なくないだろう。

うん、作家の「自分自身」のことを描いてしまいたいという衝動って、何も珍しいことじゃないんだよ。
宮崎駿なんて、最近は自分を描いた映画しか作ってないじゃん(笑)。
思えば富野由悠季の「ガンダム」(主にシャアアズナブル)、庵野秀明の「エヴァンゲリオン」(主に碇シンジ)、そういったものも突き詰めていくと結局は「自分」を描いた作品でしょ?
作家性の源泉は、最終的には「自分」。
それは太宰治三島由紀夫の例を挙げるまでもないし、もっと古いところをいえば紫式部清少納言だって多分そうである。

宮崎駿作品
富野由悠季作品
庵野秀明作品

でさ、藤本タツキ先生はやたら「天才」と言われてる漫画家でしょ。
一般的な読者からもそうだけど、いわゆるクロウト筋や同業者からの称賛がスゴイ。
私はそういうプロの目線からのことは全然分からないけど、やっぱりスゴイ才能なんだろう。

チェンソーマン

でもさ、藤本先生本人とすりゃ、あちこちから「天才」「天才」言われて、「いやいや、自分は天才なんかじゃありませんから!」という思いが日増しに大きくなっていったじゃないかな。
で、描いたのが「ルックバック」。
この作品のテーマのひとつは、明らかに「天才とは?」である。

・・あ、ここから先はネタバレ全開で書くので、未見の方はご遠慮ください。

じゃ、ここから内容の言及に入ります。

まず、藤本先生は自分を本作の「藤野」という主人公キャラに落とし込んでるよね。
そしてその親友、「京本」というキャラはモデルが実在する人物なのか否かは知らんけど、少なくとも今(現実)、藤本先生の傍には存在しない人物。
で、
藤野⇒京本を天才だと思っている(自分を天才と思ってない)
京本⇒藤野を天才だと思っている(自分を天才と思ってない)

主人公・藤野(右)と、その親友・京本(左)

という設定でしょ。

で、客観的にいってどっちが真の天才かというと、まぁここは意見が分かれるのかもしれないけど、私は藤野(つまり藤本先生)だと思うんですよ。
・・いや、藤本先生はそれを否定したいが為に京本というキャラを設定したんだろうけどさ、でもやっぱり藤野は天才だし、それを誰よりも理解してるのが京本である。

ぶっちゃけ、モブにはそのへんが理解できないのよ。
だからモブは「京本の絵と並ぶと、藤野の絵って普通だな」とか、さらっと言っちゃう。
いや、違うんだって。

京本は、確かに画力でいうと藤野を凌いでるのかもしれない。
でもそれは、引きこもりの彼女には「絵」しかなかったからだよ
一方、藤野は違う。
藤野はキャラ的に京本と対照的な陽キャであり、リア充系の人である。
その彼女が漫画という陰キャ系の作業を真剣にやるには、リア充的なモノ、一般的に皆が憧れるキラキラしたものを自分の中から削除していかなければならない。
放課後みんなと遊ぶこと、スポーツをすること、家族と団欒すること、京本が持ちえないものを藤野は全部持っていた。
でも、それらを全部捨てて、彼女は漫画を描いた
そうしなきゃ、京本に対抗できないと思ったからさ。
・・いや、藤野の「天才」たるところは、まさにここだよね。

「全部を捨てて、打ち込む」

こんなの、思春期のオンナノコが普通にできることだと思うかい?
無理さ。
でも、藤野はそれをやった。
だからこそ、「天才」なんだよ。

いやホント、私もそこは全く同意で、突き詰めると天才とは、

いかに幸福を捨てることができるか


要は、「普通じゃないこと」「周囲に白い目で見られること」さえ厭わない強さ。

だから逆に、私は敢えて藤野から離れる選択をした京本の気持ちが痛いほど分かるんだわ。
上記のような「天才」を肌身で感じてる京本は、自分自身も「天才」にならなきゃ藤野についていけない、と思うようになったんだね。
で、彼女もまたかつての藤野同様に、

「全部を捨てて、打ち込む」

(ようやく手に入れたキラキラしたものを敢えて捨てる選択をする)

それをすることで、自分は初めて藤野と同じ、「天才」になれるんだ、と。


この考え方は決して間違ったものではないと思うし、彼女は同じ「天才」として藤野と共に漫画の道を歩みたかったんだろう。
その「離れることの最終目標」を、ちゃんと藤野に言葉で伝えられなかった気もするけど・・。

「もっと絵をうまくなりたい」=「藤野と共にプロとして一緒にやりたい」

そうそう、思えば作中の藤野の発言で、とても印象に残るものがあったよね。

藤野「一日中ず~っと絵描いてても完成しないんだよ。
読むだけにしといた方がいいよね。
描くもんじゃないよ」

京本「じゃ、藤野ちゃんは何で描いてるの?」

このシーン、藤野は特にアンサーしてない。
まぁ、これは登山家に「何で山に登るんですか?」と聞くのと同じことで、なんかそれを言葉にしちゃうと陳腐になるし、むしろ言語化しない方がいいだろう。
・・でも、実は描くことに意味はある。
そしてその意味は、普通のモブが目指す幸福の概念からは完全に外れたものだし、それを目指すものは群れの中で「異分子」と解釈されると思う。
そしてモブはそのての異分子を嫌うので、当然小馬鹿にするし、イジメるし、とにかく群れから排除するわけだが、でもそういう異分子こそがモブでは絶対に成しえない偉業を成すんです。

きっと、世で称賛されてる作家のほとんどは、ほぼ例外なくそのてのモブの悪意に晒されてたわけで、それでも堕ちなかった人にだけ、  本物の「天才」が降ってくるんです。

それにしても、この作品は原作そのもののパワーもさることながら、アニメとしてのクオリティがビックリするほど高いよね。

監督/脚本/キャラデザの押山清高さんって、 なんかスゴイ!


これは一般的な人海戦術型アニメ制作ではなくて、押山さん自身、かなりの部分をひとりで描いたらしい。
制作はスタジオドリアンという押山さんが社長の会社らしくて、いうなればかなり自主制作に近い、少人数制の制作スタイルをとったんだろう。
職人色の強い、「天才」系のアニメである。
そういや、岡田斗司夫さんがこれを絶賛してたわ。

岡田さんいわく、近年のアニメーション変遷において「革命」といえる作品が幾つか存在してて、「ルックバック」はそのうちの最新のものということらしい。

<岡田氏が語る、「革命」的アニメ>

【2016年】「この世界の片隅に」

【2018年】「スパイダーバース」

【2022年】「THE FIRST SLAM DUNK」

【2024年】「ルックバック」

(次点「デッドデッドデーモンズ、デデデデデストラクション」)

ということで、「決して、今後のアニメのスタンダードにはなり得ない」と前置きしつつも、「ルックバック」は「革命的」な作品だという。
まぁね、このへんのニュアンスは言語化できるものではないし、とにかく「見てくれ」としか言いようがない。
多分、今年の賞レースは「ルックバック」総ナメ状態になることはほぼ間違いないだろう。
昨今の「言葉で全て説明しちゃうアニメ」とは真逆をいく、「絵で全て説明しちゃうアニメ」である。
皆さんも、絵で全てを読み取ってください。


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