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うつ病大学院生の自己紹介

今日は、自己紹介noteを書いていきたいと思います。

長くなるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。


※虐待・精神疾患・自殺に関する話が含まれます。つらくなってしまう方はブラウザバックをおすすめします。


【基本情報】

  • 2000年生まれの24歳

  • 女性

  • 地方国立大学院の修士2年(音楽専攻)

  • 将来の夢は教員

  • 21歳の時にうつ病と診断され、現在治療中

  • infj-t(提唱者)




ぐちゃぐちゃだった幼少期

関東のすみっこに生まれました。
第1子、長女です。

私が1歳の時に、両親は離婚しました。
当時20歳の母に引き取られ、2人で暮らすようになりました。


3歳から、音楽教室に通いだしました。
ピアノは好きでしたが、毎日練習するというのが少し苦手でした。

母は高卒シングルマザーながら、音楽教室の月謝代の捻出に尽力してくれていました。
毎週練習もなおざりに教室に向かう私が、気に入らなかったのだと思います。


毎晩のように身体を殴られ蹴られ、髪を抜かれ、深夜までベランダに出されていました。

お腹や背中はあざだらけでしたが、児童養護施設に行くのを恐れていたので、誰にも相談できませんでした。


母からの暴力は、大学生になって実家を離れるまで続きました。




割と順調な小中学校時代

地元の公立の小学校・中学校に進学しました。

小学校に上がるタイミングで、母が再婚し、弟が生まれました。
それもあって、小学校3年生の時に隣の市に引っ越し・転校しました。


自分でいうのもなんですが、義務教育の勉強は結構できました。
中学校の試験では学年300人いる中で1位以外は取ったことありませんでしたし、県内模試でも5番以内でした。

この時も毎晩のように母からの暴力が絶えませんでしたので、家で勉強はできず、塾に通うこともできませんでした。
教科書もビリビリに破られていました。
そんな家庭環境の中、学校では5教科の試験で490点取る生徒でしたから、かなりアンバランスな状態で生きていたと思います。


当時の心の支えは、中学校で入った吹奏楽部です。
この吹奏楽部が全国常連のいわゆる強豪校で、朝6時半から夜21時まで部活漬けの日々を送りました。

とにかく楽器が好きで、音楽が好きで、どれだけ練習しても楽しくて、もっと上手くなりたくて。

朝から晩まで部活のことだけを考えていました。
3年生の時には部長になり、全国大会で金賞を受賞しました。

この吹奏楽部での経験が、教員を志すきっかけになりました。
今の自分を作っている思い出です。



不登校になった高校時代

電車で1時間ほどにある、県内ではいちばん偏差値の高い高校に進学しました。


高校1年生。
友達も人並みにいて、勉強もそこそこできて、部活も頑張って、楽しく過ごしていました。


高校2年生。
夏休み明けから、だんだんと不登校になりました。
理由は分かりませんが、学校に行こうとすると、頭とお腹が酷く痛むようになったのです。
学校を休むことを決めると、頭痛も腹痛も治まりました。

最初の数回は母も欠席連絡をしてくれていましたが、徐々に仮病を疑われ、朝になると無理やり家を追い出されるようになりました。

そうは言っても学校には行けないので、駅のトイレで時間を潰したり、反対方向の電車に乗って知らない町のお蕎麦屋さんに行ったりしていました。

授業に出ていない状態ですから、どんどん勉強に着いていけなくなり、試験では下から10番以内という有様でした。


不登校など、もちろん私の母は許しませんから、暴力は激しくなる一方でした。
再婚した父は、良くも悪くも干渉しない主義でしたので、面倒事には知らんぷりでした。
弟はというと、歳の離れた息子がかわいくて仕方ないようで、両親ともに愛されていました。


初めて自殺を考えたのはこの頃だったと思います。
自殺の名所と呼ばれるところに何度も足を運び、何度も身投げしようかと考えました。

そんな私の支えとなったのは、またしても音楽でした。
楽器を演奏している時だけが、私を自由にしてくれました。

そして、音楽科教員になりたいと決意しました。
演奏家ではなくあえて音楽科教員になりたいと思った理由は、子どもたちと音楽をより身近に繋げられる存在だと思ったからです。
それほどまでに、人生を通して音楽に触れていたいと思えました。


高校3年生になって、学校に行ける日もぼちぼちと増え、少しずつ勉強するようになりました。
部活動も不登校ながら部長になり、高3秋の引退まで続けました。

そして迎えた大学受験。
私立大学を受験することは母が許さなかったので、滑り止めを出さずに国立大学1本で出願しました。
どうしても家から出たかった私は、遠く離れた地方国立大学を志望しました。
結果は、教育学部音楽科に無事合格。
合格発表は1人ネットで見ましたが、思わず涙がこぼれたのを覚えています。



うつ病と診断された大学時代

戻れるなら、大学1年生の時からやり直したいです。
講義を受けて、音楽をして、友達と遊んで、バイトをして、恋愛もして、本当にごくごく普通の大学生活を送っていました。


大学2年生の時に、コロナ禍が始まりました。

そして大学3年生の春休み、友人が自死しました。

救えなかった、自分のせいだと思いました。
ご飯も食べられず、夜も眠れなくなり、どんどん壊れていきました。
私も死んでしまおうと思いました。


光のない毎日を過ごしていましたが、夏休みに大学の附属校で、1ヶ月ほどの教育実習がありました。
それは短い期間ではありましたが、毎日幸せでした。
子どもたちと音楽をするのが本当に楽しくて、生きがいとさえ思いました。


鬱がやってくるのは、突然でした。
大学の夏休みが2週間ほど残っていましたが、その2週間1歩も外に出られなかったのです。

最初は、教育実習で疲れが溜まったのかななんて思いました。
でも外出するのが怖くて、LINEを返信するのが怖くて。
何が悲しいか分からないけれど、とにかく1日中涙が止まらなくて。
これはただ事ではないと思い、精神科を予約しました。


そして、うつ病と診断されました。
それほどショックは受けませんでした。
むしろ、やっぱりなと思いました。
とりあえず病名が付けられたことに安堵しました。


それから、自宅で療養しました。
大学には行けなくなったので、オンラインで単位を回収しました。
この点だけは、コロナの功名みたいなものです。
友人たちにも支えられながら、何とか、本当に何とか卒業しました。


就職活動はというと、大学4年次に地元の教員採用試験を受けました。
うつ病と闘いながら教員採用試験の勉強をするのは、なかなかしんどい経験でした。

うつ病になると文字が読めなくなるといいますが、例に漏れず私もその1人でした。
しかしながら症状に打ち勝ちたかったので、朝から晩まで勉強しました。
正直、大学受験よりも勉強したと思います。

その結果、音楽科は倍率10倍を超えていましたが、何とか合格することができました。


ただ、そのまま卒業して就職できるほど元気ではなかったので、大学院に進学する選択をしました。
大学4年の夏は、教員採用試験に大学院入試に、なかなかハードな日々でした。



大学院生活、性被害に自殺未遂

大学院の修士1年では、とにかく研究に打ち込みました。


1年間で大学院修了に必要な単位は取りきったので、余裕が生まれました。
そこで、修士2年から、中学校で非常勤講師を始めました。

合わせて500人ほどの生徒たちに、音楽の授業をしていました。
教育実習では経験できなかったことも多く、週3回の非常勤講師ながら毎日授業準備と成績処理に追われていましたが、やりがいを感じていました。
たくさんの生徒たちとおしゃべりをするのが、毎回毎回楽しみでした。


そんな非常勤講師も、わずか数ヶ月で退職することになってしまいました。
性被害に遭ったからです。

これは、私の人生でいちばんつらい出来事でした。
性被害については、また別のnoteでお話したいと思います。


少しずつ社会復帰できていたというのに、一瞬でどん底に突き落とされました。
それからというものの、毎日が真っ暗です。

そして、自殺未遂をしました。
自殺未遂についてはこちらのnoteでお話していますので、もしよろしければ覗いてみてください。



それから、現在に至ります。

なんだか自己紹介というより、ライフヒストリーくらい長くなってしまいました。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


最近noteに出会ってから、少し心を取り戻した気がします。
文章を読むのも、考えるのも、とても楽しいです。

今後もゆるゆると続けられたらなと思っているので、どうぞよろしくお願いします。

皆様のスキやフォロー、とても励みになります。


皆様が良い夢を見られますように。

おやすみなさい。



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