違国日記の映画が公開するのでヤマシタトモコを語りたい(作品紹介)
私はマンガを読むときにジャンルを問わないため、ヤング・レディース系の作品も、それなりの数を読んでいる。
というか、私が読んでいる作家さんは青年誌でも描かれていることが多く、追うのはコミックスなので、掲載誌を意識することが、むしろまれなのだ。
今回のヤマシタトモコさんも出会いはアフタヌーンである。
みんなー、まずは後頭部に注目してくれ
個別の作品について語る前に作家全体において好きなところをあげておくと、それはマッシュな女子キャラのふかふかした後頭部ということにつきるだろう。
連載デビュー作(?)のバター!!!の頃から一貫して、この作家さんは女子キャラの後頭部に強いこだわりを持っていることは明らかであり、私はその完成形が違国日記の朝の髪型だと思うのだ。現実世界であのボリュームを再現するには、なかなか難易度が高い気がしていたが、今回の映画版では結構頑張ってくれていて、大変喜んでいる。
ヤマシタトモコの作家性について
ヤマシタさんはコメディとシリアスとSFのそれぞれで、読み味やテンポがかなり異なるため、作家性についてひとくくりに語るのは結構難しい。
私個人の好みでいえば、アップテンポのコメディ調の作品が好きだ。前述の「BUTTER!!!」がそうだし、「さんかく窓」の日常パートなども、そうだろう。
とはいえ、ヤマシタトモコの世界観を堪能するなら、スローな作品群を中心に読むと良い感じに浸れるはずだ。モノローグとともに訥々と、もどかしい感じで話が進み、状況が積み上がると一気に叙情へと転換する。その、たまに来る感情(ご褒美)への導線が、気持ち良いのだ。
一方で、この作家の作品は目新しい設定は少ないように思う。こんな導入どこかで見たことあるなあと思いつつ、別の切り口で異なる場所へと着地させる手腕が上手いのである。そして必ず人間同士が絡み合う。群像劇的に関係が入り混じっていき、それぞれのディスコミュニケーションが少しずつ解消されていくのだけれど、そこに必ずしもわかりあうという解決策が出てくるわけではないあたりが、この作家の特徴だろう。
今回映画化される「違国日記」というタイトルは、(家族ですら)お互いわかりあえないんだけど、歩み寄り適切な距離感を掴むことで社会性はつくられていくのだということを端的に表現したものなのだと考えている。その意味で、作家としてのテーマ性が一番色濃く出た作品なのかもしれない。
それでは、以下で印象に強い作品を紹介していく。
BUTTER(バター)!!!
高校の社交ダンス部マンガ。
私の従兄が社交ダンスの教室を開いているのだが、彼に話を聞くには、世界の層は分厚く、ものすごいヒエラルキーが存在する世界のようだ。つまり今でも、根っこは貴族社会に通底しているのであろう。
それはともかく、ヒエラルキー最下層にいる未経験者が目標を立てて、ひたすら努力を積み重ねることでハードルをクリアしていくという展開と、男女がペアを組むことでお互いの存在を意識していく過程まですべてが王道のスポ根もの。
ダンスにハマっていく途上で、驚きと興奮を表現するのに大口をあけて、もう笑うしかないみたいな顔をするところが好き。方向性は違うけど、川原泉作品の「わっはっは」顔に通じる安心感。
未だに一番好きな作品かもしれない。
さんかく窓の外側は夜
オカルトホラーコメディ? 現代退魔師もの。
BLレーベルではあるけど、そこが主題ではない。
この作品は、那州雪絵さんの「魔法使いの娘」と対比せずにはいられない。どちらも彼方此方の境界線上で、人間が持つには強力すぎる力を行使することでしか生きられない、世俗から切り離された不器用な父親と、その子どもが対峙する話なのである。
魔法使いの娘の方は、娘(実子ではないが)を溺愛するがその一方で、呪術に没頭し段々と人間性を喪失していく中で、娘に罰されることを望む父親が描かれ、さんかく窓では妻を愛するあまり息子に嫉妬をするエヴァのゲンドウのような父親像が描かれる。
いずれの作品も、オカルトを一切信じないことでオカルト避けのお守りになる登場人物がいたり、対になる部分も多いので、読み比べることをおすすめする。
私の一押しキャラは半澤刑事。目の下にクマ、オカルト連中に振り回されているかわいそうな人。後半、カッコよすぎる。
バディものが好きなのと、仲間が集まって事件が収束していく展開はふつうにワクワクできるので、そういうのが好きな人におすすめ。
HER/WHITE NOTE PAD/ひばりの朝
ヤマシタトモコらしさを味わうなら、一巻完結のコミックスを読めば良い。
いずれも単巻の物語。別名、人の感情を読み解くパズル。全部フィーヤン掲載の作品かな。
ヤマシタさんは、ジェンダーを扱うことを自覚的に行っている作家のひとりだ。
正面きったリブやレインボーフラッグの切り口だと、入口としてとっつきにくいが、「私は何者なのか」「お前は一体なんなのだ」みたいな眼の前の問題に置き換えてもらえると、私でも理解できる。
私は人の心を解せぬ者だ。異性どころか同性ですら、何を考えているのかわからない。なので正しいかはともかく、常に対人相手の心の内を想像する癖がついている。想像するには、あらゆるパターンのインプットが必要だ。そんなときにヤマシタトモコは便利なのである。
私からすれば共感しづらいキャラクターが心情を吐露しつつ対人関係を進展させると、なぜだか最後には共感できる気になってくるのだ。インプット完了。
この中でもホワイトノートパッドは、定番の男女入れ替わり物なのだけど、おじさんと女子高生の中身が入れ替わるという、なかなか一筋縄ではいかない構成。いくら女子高生に生まれ変わって強くてニューゲームでも、ファッションに興味なかったおじさんが読モするまでに意識を変えられるものだろうか。生存能力高すぎだろう。最初しんどそうな話だなと読むのをためらっていたけれど、結果ふたりともたくましく生きる道を見つける様は良かった。
自分が同じ立場に置かれたとき、出産を決心する気になるかどうかは興味深い(その状況になってみるまで答えはでない)
この手のTS物は入れ替わり直後だけ切り取った話は、よく見かけるのだけど長期戦の方が個人的には面白いと思う。なぜなら人間は歳をとるんだよ。「そうはいってもこの身体と人間関係の中で生きていくため、なんとか適応しなくちゃいけない」という、新しい環境へのサバイバル的な面白さ。新しい考え方を理解することが攻略につながるという。
違国日記
私は何が面白くて、この作品を読んでいたのだろう。
ひとつ言えるのは、私は群像劇が好きだということだ。もちろん作品の中心人物は少女小説家と姪っ子のふたりに絞られているのだが、脇キャラのサイドストーリーが細かく挿話されていて、それが本筋に少しずつ絡んでくる構成が気持ち良い。
この人何者?→ああ、こういうキャラなのね→だからこの会話につながるのか、の流れを延々と繰り返す。
私も物語を構築することがあるが、大体において詰め込みすぎてしまう。ハリウッド式に五分ごとにメリハリとドラマを作らねばとばかりに、主人公の置かれた状況を二転三転させてしまうのである。
一方、違国日記のメインテーマを乱暴に解体すると、小説家とその姪が一緒にくらしはじめて、姪っ子家族が以前住んでいた部屋の整理をして、三年かけてお互い歩み寄るだけの話である。テキストなら三万文字、マンガなら六十ページでお釣りがくる。だが、このマンガはその物語に全十一巻、二千ページ以上を費やす。
何が違うのかといえば、サイドエピソードの量が違うのだ。物語の中で、姪っ子の朝は高校生として生活をし友だちの悩みを知り彼女たちと関係を深め卒業する。小説家の槙生ちゃんは、理解しあえなかった姉を見つめ直し小説家仲間と励まし合い元彼と元サヤにおさまり、その元彼は……、弁護士は……、朝の幼馴染は……、という形で周辺の人達の物語が同時進行で厚みを増していく。
こういった構成は、志村貴子さんに通じる上手さがあると思う。
独白と空白で間を作りながら、時間をかけて作品を熟成させていくのだ。
……困った。せっかちな私にこの創作作法は難しいな。真似できないぞ。
さて、6/7(金)より「違国日記」の映画が公開される。
上で述べたとおり、サイドストーリーをカットすれば二時間の尺にはらくらく収まる話だ。だからこそ、どのエピソードを残すのかに注目したい。
えみりのエピソードと笠町とのロマンスは入れてくるかなーと予想しながら配役を見ているが、笠町くん役が瀬戸康史って、さわやかすぎる。期待しよう。