自分を生きるということ。
今日のパリ地方は風があって結構涼しいです。夏も終わりの空気感を感じましたが、まだまだそんなことはなさそう..かなぁ。
今日のこのテーマ、不意にふと急に浮かんだので、すぐ書きたいなという思いに駆られ、シェアしますね。
自分を生きるということは言葉ではすごく簡単に聞こえますが、実際にできている人が少ないのかな、自分を生きるということを改めて考えたことがない人、そして 実は自分を生きていないということを自分自身で気付いていない人が多いかも。ということでお話ししたいと思います。
実は以前のわたしもそうでした。
自分を生きるとは。人によって定義が違うと思いますが、シンプルに 自分の人生を自分自身が決めて生きていて、自分はどうしたいか、どう思っているかを常に持っている人かなと思います。
が。一番もったいないのは自分を生きていると思っていながら実際はそうではないこと。その事実に長い間気付けていないことだったりします。かく言うわたしもそうだったので。
『え!わたしはちゃんと自分の人生をを生きていますけど?』
と思う人がほとんどだと思いますが、これを読みながら今一度振り返ってみてくださいね。
わたしが以前、霊気の先生に施術をしてもらっていたとき。
『なんか、魂が入っていないのよね。気(エネルギー)がすべてどこかにいってお留守になっている感じ。』
と言われて、なんのことなのかと全くピンときませんでした。
『こういう感じは宗教団体に入って洗脳されている人によくあるパターンなのだけど信じているものとか好きな人とか入っている宗教団体とかあるの?』
と言われて、ますます えええ?と思いました。
精神世界での学びをすでに深めていた時だったので、思い当たる節もなければ宗教団体も入っていないし・・?と真面目に考えていました。(何気に最近のキーワードとかぶっていますがお気になさいませんよう。)
そこから、自分を生きるってどういうことだろう...?と考え始めました。
早い子で託児所、そして幼稚園・小学校で義務教育が始まり、自分の意見を持つよりそこからはみ出さないことの方が重要。団体行動が基本でみんなと同じだったらいいのよ的な、今思えばロボットのように教育されて、自分の考えというものを持つ必要がありませんでした。これは過去の記事でも違うテーマで書いています。
だから日本の国が悪い、教育が悪いと言っているわけではもちろんありません。そのような民族文化や時代背景があってのことですから。
そのような学校教育の中で唯一、道徳の授業や作文などで自分はどう思うか・どう感じるかを述べるくらいだったと思います。他の国のように学校の授業で一つのテーマについて議論し合うということがないので(今はそんな授業も増えてきていると思いますが)当時はそれが普通だったわけですね。
それだから自分はどう思うかなんて発言をしなくても全く支障がないどころか、そちらの方がうまく社会に収まれていたわけです。
留学された方や早い時期に日本を出た方は分かると思いますが、外国に行くと、とにかく自分はどう思うのか。好きなのかそうでないのか。を求められる嵐!なので最初はわたしもとっても戸惑いました。何故って考えても自分がどう思うのか全く思い浮かびません。出てくる答えはいつも『どっちでもいい』でした。それって別にどうでもよくない?とまで思っていました。
どっちでもいい=自分の意見が自分自身でよく分かっていないということですよね。
霊気の施術の話に戻りますが、その後、半年間くらいは自分を生きていない、つまり自分は宗教団体に洗脳されているような周波数(バイブレーション)という自覚もなければ原因もわからないままでした。
それからしばらくして、少しずつ片鱗が見え始めました。
家族とたわいもない会話になったときのことです。母が彼女自身の直面していることに対しての姉妹(子供)間のやりとりの中で、母はこれからをどうするかを悩んでいるの。それについて貴女はどう思う?というような質問でした。
でもその時に母が悩んでいる。と言うので彼女がそう打ち明けたのかと思いきや、よくよく聞いてみるとそうではなく、自分も似た経験をしたから自分だったらそういう結論(悩むという)に至るという話でした。
結局のところ、母は全く悩んではおらず自分はこうしたいというはっきりな意思表示があったのです。
人は自分の重ねてきた背景や経験をもとに 同じような状況や境遇だと捉えたときに、自分の感情とその人を重ねてしまいます。
よく言えば非認知能力が優れているのですが、その人と同じ性格でもなければ生まれ育った環境も違い、考え方や価値観も違うとすれば、それはその時自分が持った感情をそのままその人に重ねてしまうので、『絶対そうであるはず』という前提になってしまうのです。
それが当人の想いと偶然にも一致していたり、当人の気持ちを汲(く)めればよいのですが、この人も絶対にそうであるはず、という決めつけは当人の意思とは遠く離れてしまったり、自分がその時そう思っていたけれど言えなかった気持ちや蓋をしてしまっていた感情に重ねてしまう場合は、肩代わりしてあげたのに実は誰のためにもならないという無駄なエネルギーになるわけです。
そしてこの人はこう思っているだろうから、という勝手な予測で、その人のために頼まれてもいないのに怒ったり、首を突っ込んだり、お節介をしたりするわけです。
家族間ではよくわかっているような気になる近しい間柄ゆえに、相手の立場に勝手に立って『その人の代わりに』色々な感情を表す場合が多々あります。
それから度々、そういう場面に出くわしました。
『〇〇さんはそういうの迷惑だと思うよ。』
『~さんはこういう風に思っていると思うよ。』
一見よく聞くようなフレーズです。
~だと思っていると『思う』、というこの推測で会話をする意味が全くわからないので、わたしはこの手の会話がとても苦手です。当人をよそに第三者同士がああでもない、こうでもない、と話していても何の意味もないですから。そんなことに時間を使う暇があったらもっとやりたいことに時間を使いたいと思ってしまうのです。
つまり、その人の奥深くにしまいこまれた感情を、状況や感情が似通った人に乗せてその人の代わりに表現するのは自分を生きているのではなく、その人を生きてしまっている証拠です。
わたしが鍋にパスタがまっすぐ入らないので折って茹でていた時のこと。
夫がやってきて『僕の父がね、一番許せなかったことはなんだと思う?それはね、パスタを折って茹でることなんだ!』と言いました。
わたし『‥それで?』
夫『え?意味分からない?』
わたしの心の声 (『いや、それはあなたですがな〜!』)
このように、ふとした瞬間に自分が自覚していない意識下で自分ではなく、他の誰かを生きていると分かる時があります。
この場合は父親がそれを許せないだけで、自分も同じに思いになることはないわけですね。
これらは本当によくあるパターンで、自分が好きな人・尊敬している人・好意を抱いている人などの思いをそのまま自分のものにしてしまう。その人が好きだからわたしも好き。尊敬するあの人がこう思うからわたしもそう思う。わたしもそうだと思う。あの人がこういったからその通りだと思う。
これは自分はどう思うかという余地を与える前に、自分もこう思っている!と思い込んでしまっているパターンです。これも自分を生きていない証。自分はどう思うかを自分に聞いてもいないのだから。
あの人が好き と その好きな人が好きなこと・好きなものはイコールになりません。
あくまでその人の世界観です。
だから大好きなあの人がいった言葉をそのまま自分が思っているかのように言ってしまう。自分は到底そんなつもりはないのだけれど・・大好きな人や憧れる人がいて、その人のようになりたいと思ったとき、コピーをするという人も結構いますし、そういうメゾッドも多くでているのは事実です。
その人の言葉であったり、容姿であったり、雰囲気であったりを真似しただけのもので自分ではないわけです。この時点ではまだ‥。
男女関係であれば、付き合う人によって趣味が全く変わる人がいます。前のパートナーはアウトドアが好きだからアウトドア派になる。その前のパートナーはスキューバーが好きだったからその免許をとる。その前の前のパートナーは家庭的な人が好きだから、自分は家にいるのが苦手だけどそうする、など。
その努力や好奇心は素晴らしいですし、それをきっかけに自分の趣味が増えるとか、本当に好きなことになったとしたらそれは大いに真似するべきですよね。
それが本当にあなたがやりたいことであったとしたら、という前提で。
パートナーが長い髪の方が好きだから伸ばしてるの。わたしはあまり好きではないけれど‥と自覚していればまだマシかも知れませんが、
一番危険なのは、好きでもないのに、好きになったような気でいることや、他人のコピーを自分であるかのようにふるまうこと。
わたしもまさにこれをやっていたのです。そして、それに全く気付かなかった。
これらを聞いて思い当たる節がありますか?の質問に、じっくりと思い巡らせないで わたしは全然大丈夫!とすぐ答えてしまう人は要注意かも知れません。
自分は本当は何が好きなのか。
自分は本当はどう思っているのか。
自分は誰かに成り代わっていないか。
誰かの皮をを被ったまま、それを自分として演じていないか。
誰かのために怒る必要もないし、代弁する必要もないし、好きな人の信念をそのまま持つ必要もないのです。
あなたはただ、あなたのままで。
新月も近いので今日はゆっくりと考えてみてくださいね!
それではBonne nuit !(ボンニュイ=おやすみなさい)