「自由」であることとは何か
GWの自由な時間を過ごす中、改めて「自由」について考えてみました。きっかけとなったのは、弁証法で有名なヘーゲル(1770-1831)。弁証法により、人類は絶対知に近づいていく。そんなイメージのみをもっていましたが、自由の考察に対し、深い意味があることを知りました。
「自由」は好きな言葉。わたしにとっても大きなテーマです。
自由に対する哲学者の言葉
古代ギリシャ、奴隷であったストア派のエピクテトス。
「自分がコントロールできないこと」に欲求を向けないことで、何ものにもとらわれない自由が得ることができるという意味。仏教の悟りもこれに近いと思います。
20世紀の哲学者、実存主義のサルトル
自由に生きることは他者へ影響を与えるものであり、それに対して責任をもつ必要があるという意味の言葉。時代背景によっても「自由」の捉え方は大きく変わることがわかります。
ヘーゲルからの気付き
哲学において「自由」は大きなテーマであり、辞書で調べても多くの意味がでてきます。わたしのイメージはシンプルに以下のとおりです。
①・②は、ストア派の考えに近いもの。「個」を主体とした自由。とても大切であるものの、サルトルの言葉からもわかるとおり、難しいこと。
今回ヘーゲルを知ることで、これらに加え、第三のイメージを持つ必要があることに気付きました。
第三のイメージ:「相互承認」が、本当の自由を可能にする
人間は一人で生きていくことは不可能であり、<組織>のなかで自由を見出す必要があるということです。自由とは、他社への依存や世界との摩擦のもとでのみ存在するものであること。ヘーゲルはそう言います。
「個」を基準とした自由(≒わがままに近いもの)では人は孤独になる。
「組織」を基準とした、お互いの自由を尊重し、お互いの自由を探し求めていくことが自由である。
言い換えると、今自分が自由と思えるのは、自分の自由を尊重してくれる家族や仲間がいるからこそ。
そして大事なことは、家族や仲間の相手の自由も尊重し大切にすること。
そのように、言えると思います。
「一人では自由は完結しない」
「人は一人では生きていけない」
当たり前な言葉ですが、それを心に留めておきたいと思います。
「個」から「家族・仲間・組織」へ。