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1日1とーん

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書くことを忘れないためのつぶやき集
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#自分

見てる人は見てるし、いつか自分の番が来る、と思うことでしか、頑張れなかった日々にちょっと光当たる出来事があったので、あのときの自分に頑張ったねと言いたい。頑張ることすなわち報われる世の中じゃないけど、まだ少しは、頑張りの積み重ねを信じられる気がした。

電車が着いた途端に改札に向かって駆け出していく子供を見て、そんなに急がなくてもと思うか、何か楽しみなことでも待ってるのかなぁと想像できるかが、自分の心の状態を映してる気がした。私も昔、わけもなく改札に向かって階段ダッシュしてた頃もあったなぁ。

仕事の話しかできないつまんない奴になったもんだな、と若干落ち込んでいたら、学生から採用云々より人として面白かったからまた話聞きたい、って言われたのがとてもとても幸せ。畏れ多いけど、ちょっと長く生きたぶん、妥協や同調も知っていながら、それでも面白さを出せるひとでいたいなぁ。

自分のためになら頑張れるときと、ほかのひとのためになら頑張れるときと、なんのためにも頑張れないときがある。そうわかっているから、誰かのために頑張れるくらい元気なときは、ちゃんと頑張ってみよう、と、今日がすっきり思える日でよかった。

何がやりたったかなんて見失ってしまうくらいどうしても目の前のことをこなして生きることで精一杯になってしまう瞬間があるよ、と、言われていた通りだったけど、そうであってもいつかは元の気持ちに帰ってこれるような自分でいたい。こういうのを、レジリエンスっていうのかも。

頭のなかや時間をずっと拘束していた何かから解放された瞬間は、それが達成であれ諦めであれ、世の中が楽しいことだらけに見える。本当は世の中楽しいことだらけなんだって、その瞬間は気付ける自分でいたい。

わたしは多分、過去からの文脈にいまが規定されているという考え方がとても好きなんだと思う。それは自分自身についてであっても、いわゆる「社会」や空間の履歴についてであっても。未来を独創的な発想で語る能がないぶん、過去を参照(≠踏襲)する楽しみを知っているのかもしれない。

「今度の日曜日は鬼にならなくちゃ」と、いつも仕事をきっちりこなす上司に垣間見えた父親の横顔がとても素敵で。自分が素直でいることと、それを表現することのバランス感覚が掴めない私は、いつかひたむきさに微笑ましさを滲ませる人になりたいなぁなんて思いながら、去年より一つ増えた豆を食べる。

他人の不幸は蜜の味、というし、それだけではなくて不幸な方が訴求力のある文章が書ける気がする。けれど私は、不幸自慢をするくらいなら、幸せだって平凡な日常だって、ちょっとした気付きの切り抜きをしたため続けたいなぁと思う。たとえ、自慢だとか、自意識過剰だとか、ノロケだとか揶揄されても。

なにもしない、を楽しめる人になりたい。予定を詰め込まずに、なんとなくなにかに向き合う時間が、自分を回復させてくれる側の人種であることに、やっと気づいた。

「自分に感謝しましょう」と習い事でよく言われる。自分を大切にならまだしも、感謝ってなかなかしないよなぁ。この言葉を素直に受け止められたから、今日はきっといい日だった。

普通は嫌だと言いつつ普通を擬態して不自由なく生きれるくらいに"普通"だと、迷いながらも最終的に自分を貫けるひとが本当に逞しいんだなって眩しい