「マイ言語」に生きるロラン・バルト:『零度のエクリチュール』論
はじめに
ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』は、一九五三年に出版された彼はじめての単行本である(以下『零度』と略す)。ひとことでいえば、文学作品がいかにして価値をもちうるかについて論じた本だ。
「エクリチュール」というフランス語はふつう「書き言葉」と訳される。ジャック・デリダは「パロール(話し言葉)」の対概念としてこの語を導入したが、バルトの場合そうではない。
バルトは、「言語活動においてその言語活動と社会との関係をさだめる層」という意味で「エクリチュール」という語を使う。そしてそれを、言語活動におけるほかの二層、「ラング(国語)」と「スタイル(文体)」に対比している。ラングは社会の言語規約、スタイルは作者自身の言語規約である。ラングとスタイルはすでに固定されており、作者に選択の余地はない。対してエクリチュールは、言語活動において作者が唯一自由を発揮できる場所だと、バルトはのべている。
それは、彼にとってのテクストそのものだと言ってもよいだろう。バルトは時期によって「スタイル」や、たんなる「テクスト」と区別できない意味で「エクリチュール」という語を使ったが、概して彼の関心は、作品間の形式上の差異という点へ向いているからだ。
『零度』で語られるのは、エクリチュールに着眼しフランス文学史を通覧することで得られる、以下の物語である。
1)ブルジョアエクリチュールをはじめとし、時代ごとに支配的なさまざまなエクリチュールが存在する。
2)それら慣習化したエクリチュールを脱するため、作家らは新しいエクリチュールを生み出してきた。
3)やがて相対的な優劣を超えた最上のエクリチュールである「零度のエクリチュール」が生まれた。
4)しかし零度のエクリチュールですら、それが最上であるのは一瞬のことにすぎない。
本稿ではこの起承転結の物語を、バルトの他作品など参照しながら論じなおす。
といっても、多くのバルト批評でなされるように、この物語の閉塞性を指摘したうえで以後のバルト作品がそれをどう乗りこえたかを論じたいのではない。むしろ以後の作品が乗りこえたかに見える本作の問いについて、この物語の内部にとどまり考えつづけたい。
本稿は以下のような構成である。
「1 エクリチュールという悪習」では、バルトがあらゆるエクリチュールは悪習と化すとのべたことをふまえ、そもそも悪習とはなにかを考える。つぎに、バルトがあらゆるエクリチュールをおなじ次元で構造化したのに対し、本稿では「2 苦闘史のエクリチュール」、「3 マイ言語のエクリチュール」で、「苦闘史」と「マイ言語」というふたつの特権的なエクリチュールの存在に言及する。「4 マイ言語の逡巡」では、バルトその人も固執した「マイ言語」の、その信頼性について論じる。最後に「5 小説を書けないバルト」で、なぜ彼は小説を書くことを切望しながら、ついにそれが果たせなかったのか考える。
1 エクリチュールという悪習
サルトルは小説家について、つぎのように書いた。
バルトはサルトルから多くの影響を受けたが、『零度』では、このような作家像を批判的に見、伝統的な悪習にすぎないと断じる。それが『零度』の議論のスタート地点である。彼は、あらゆる作品がすべからく社会参加することを「エクリチュール」概念の導入によりたしかめながらも、サルトルとは真逆の解釈をおこなう。
バルトは、優れた文学作品の特性としばしばみなされるところの、明晰さ、意味づけ、神話性、主体性、連続性などについて、それらはけっして文学の必需品ではないのだとのべる。
また、エクリチュールというものはほかに根拠をもたずとも自給自足できてしまうし、ゆえに権威をもちつづけられるのだとも言う。
本書は十八世紀から二十世紀の現代文学まで、さまざまなエクリチュールの分析を進めてゆくが、つまるところどのエクリチュールもおなじ道をたどる。
ゆえに下記のように――これは、執筆へは長時間投資するほどよいと考える「職人のエクリチュール」への批判である――どのエクリチュールもおなじ機能しかもたないため、エクリチュールAをエクリチュールBで代替できてしまう。
あらゆるエクリチュールは悪習と化してしまうということが、本書の要諦である。その意味でバルトは、あらゆるエクリチュールを一律化してあつかっている。
ところであらためて考えてみれば、「悪習」とはなんだろうか。
それはバルトの言うとおり「既存のエクリチュール」にほかならず、固有性をもたない道具のようなものでもある。だがたとえば、「小説」という表現形態自体が一種のエクリチュールであり悪習であるということも、本書の批判ロジックを使って主張できてしまう。
悪習とはそもそもなにか、少し考えてみたい。
それは、「作品」、「制作」、「思考」とどのような関係をもつ概念だろうか。
本稿では「思考」という語を、作品への能動的な関与である「制作」と、受動的な関与である「鑑賞(読書)」の、双方をふくんだ行為の意でもちいることにする。ここで、制作には受動的側面もあり、鑑賞には能動的側面もあることを前提としている。「思考」は「言語活動」と言いかえてもよい。また、思考と作品とが完全に一致する芸術ジャンルを想定することもでき、それは三章の「脳体験」の話でふれる。
まずもって悪習とは、本書でもさんざん言及されるとおり、つねに作品につきまとうものであるし、つきまとう唯一のものであろう。よい習慣や、よい発見のようなものはつきまとわない。だから本書の提示する最上のエクリチュールですら、たかだか「零」までにしか達せないのだ。
たとえば文学作品を読んでいて、特定の箇所をよいと感じることはある。しかしつぎに読むときはもう、そのよさを感じられはしないものだ。いっぽうだめだと感じた箇所は、何度読んでもだめなままである。だから思考は、悪習からはなれようとする。それは、現実でも空想でも、悲惨な光景を具体的におもいうかべることはいくらでもできるが、幸福さでそういうことができないというのに似ている。
私は小説の一節でつぎのように書いたことがある。これはじっさいに、私がある文学同好会に参加したさい送付した文面でもある。
このような言及は文学賞の選評などでおこなわれる程度であり、ふつうこれ以上議論が掘り下げられることはない。なぜなら、それは本当に悪い文かという問いや、そもそも悪い文とはなにかという問いにかかずらうことは、作品に対する視野を大幅にせばめてしまうからだ。
『零度』でも、悪習の治療が試みられるわけではない。むしろエクリチュールの性質上、ある悪習を取りのぞいても必ずべつの悪習が発生してしまうことがしめされる。
バルトはあらゆる悪習、つまり既存のエクリチュールを一律化してあつかった。しかし本稿では、文学においてとくに決定的な役割を果たしている、ふたつの悪習に目を向けてみたい。
2 苦闘史のエクリチュール
つぎの素朴な問いについて考えてみよう。
問1)文学作品で悲惨な歴史が描かれるのはなぜか。
これに対し、「そのような傾向は、さまざまな作家によってくつがえされてきた。カフカやベケットが代表例だ。ジョイスもフォークナーもマルケスも、たしかに悲惨な歴史を描いてはいるものの、価値を見出されたのはその文章上の技法においてである」という反論があるかもしれない。だが、そのジョイスやフォークナーが現に悲惨な歴史を描いてしまっているということが、この問いでは指摘されているのだ。
ノーベル文学賞受賞者の作品でもならべてみれば、ほとんどすべての作品で「悲惨な歴史」が描かれている。その裏返しの意味でカフカのような作家が強い存在感をもつというのが、じつに奇妙なのである。
悲惨な歴史とは具体的には、民族や社会集団が苦しみ、闘う、長い長い時間のことである。以下、「苦闘史」と呼ぶことにする。
いわば「苦闘史のエクリチュール」の存在は、構造としては、「悪習」というものが思考につきまといどうしても存在してしまうことの、階層を変えた表現とも言えよう。苦闘とは、悪いものから逃れるための闘いである。幸福をつかむための闘いではない。
大江健三郎も、苦闘史を描きつづけた作家である。ノーベル文学賞受賞理由は、「詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」だった(Wikipedia)。
大江はギュンター・グラス『ブリキの太鼓』を読んださい、自分もこのような「大盤振る舞いの小説」を書く必要があると感じ、『同時代ゲーム』を書くにいたったのだという(大江健三郎、尾崎真理子『大江健三郎:作家自身を語る』、新潮文庫、二〇一三年)。この「大盤振る舞いの小説」という表現には、連綿とつづくある社会集団の苦闘を、その壮大なスケールのまま描ききるという意味がこめられている。
先日、私は町屋良平としゃべった。府中でおこなわれた、著者本人も参加する読書会だった。
彼の直近の長編、『ほんのこども』、『恋の幽霊』、『生きる演技』は、テーマの共通する三部作である。主題化されるのは、主体としての「私」、私の「身体」、システムとしての「家族」や「国」や「愛」や「文体」や「フィクション」、それと「暴力」だ。近代主義批判などで使い古されたこれらの語を、あえて直接的にくりかえしながら問いが深められていく。注目すべきは、登場人物がなんら直接の関係をもたないにもかかわらず、ナチス強制収容所や立川憲兵隊事件という、まぎれもない苦闘史をあつかっていることだ。
それについて町屋はこう語った。
「戦争を取り入れたのには、長編小説を商業的に成功させるためという側面もあります。長さをもたせる必要もある。それはおっしゃるとおり、王道のパターンでもあるでしょう。ぼくは、デビュー時はカフカ的に書きたいという意識が強かったけれど、それは結局はカフカ的でしかなくて、オリジナリティがないとおもうようになったのです。もともと小島信夫を読んでいて、その後大江健三郎に没頭しました。大江とぼくはぜんぜんちがう人間だと感じる。多作という点だけは、共通しているかもしれません」
このようにして苦闘史のエクリチュールを受け入れる態度には、作家としてのリアリティがにじんでもいる。
既存のエクリチュール、つまり悪習を受け入れる理由には二種類あるだろう。
ひとつは、本書で論じられるように、どのような新しいエクリチュールも結局は悪習と化してしまう以上、その打開にはげんでもしかたないのだという開きなおり。もうひとつは、そのようなエクリチュールの宿命に関係なく、制作上の問題、作者の実存の問題として、特定の悪習をどうするかというのは数ある懸念事項のひとつにすぎないということだ。仮にその悪習が気になったとしても、それをどうあつかうかという問題が、それをどう取り去るかという問題になるわけではない。
悪習を使ってはいけない理由など存在しないのだ。そのせいで文学が価値をもちえなくなるわけではないし、むしろそれにより思考は推進力を得るものである。
ところで、なぜそれが「苦闘史」なのだろうか。
あるいはこう問うてもよい。なぜわれわれは、苦闘史をあじわうために文学を読んでいるのか。
現実の歴史とは対応せず、むしろそれを極端にそぎ落としたベケットのような思弁的テクスト、あるいは多くの現代詩を読むときすら、われわれはその裏側に表現としての苦闘史をまなざしてはいまいか。
私の文学同好会へのメッセージはこのようにつづく。
われわれは悲惨な歴史、苦闘史の再生産をキャンセルするための思考を、文学や芸術と呼んでいるのだろうか。はじめから文学と苦闘史は抱きあって生まれ落ち、互いを補給しあっているかのようだ。
次章では、「苦闘史」から脱却するために生まれた、もうひとつのとくべつなエクリチュールを取り上げる。
3 マイ言語のエクリチュール
一般に文学批評や芸術批評において、「制作」というものがどのようにあつかわれてきたかを確認しておきたい。
制作とはつまり作品と作者の関係のことであるが、文学、芸術批評には、制作の側面を考慮に入れる批評と入れない批評がある。木田元は前者の代表として小林秀雄、後者の代表としてハイデガーをあげた(木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』、文春新書、二〇〇八年)。
『零度』は後者である。
なお、バルトはある時期までは『零度』同様、テクストを作者から切りはなす「作者の死」の方針を取ったが、一九七三年刊行の『テクストの快楽』以降は、作品と作者の関係も重んじるようになった。
制作としての文学にこだわる作家といえば、保坂和志が代表的である。山下澄人、千葉雅也など、保坂思想への賛同をしめす書き手も多い。彼らはある種の私小説を書く作家でもある。
保坂は西部百貨店のカルチャーセンターで現代思想講座を企画する仕事をやっていたさい、バルトへもっとも強い関心をもったという。そして、バルトがサラジーヌ論などでおこなう構造分析がまったく機能しない小説を書くことを念頭に、デビュー作『プレーンソング』を書いたのだった(保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』、中公文庫、二〇〇八年)。
その思想のかなめは、「現に読んだり現に書いたり現にだれかとしゃべったりする私自身のその経験」と言えよう。一種のリアリズムであるが、厳密には、文学作品というものをひとつの思考のかたまりと見たときに、その形式を、我々の日常的な思考の形式と照らしあわせる姿勢のことだ。
それによりたとえば、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフの収穫とされる「意識の流れ」技法に対し、「現実のわれわれの思考は、脈絡なく流動的である。ひとつのことをおもいだせばまたべつのことをおもいだし、過去をさかのぼったからといって現時点にもどってくるともかぎらず、事実の正誤も入り乱れている」というふうな根拠づけもできる。つまり保坂思想は、二十世紀の文学史と調和したものでもある。
そのように作者がテクストを、自身のふだんの思考の形式へ近づけようとして生むエクリチュールのことを、「マイ言語のエクリチュール」と呼ぼう。
苦闘史のエクリチュールから脱するためにマイ言語のエクリチュールを開拓してきたのが、二十世紀以降の文学の潮流だと私はおもう。
マイ言語がエクリチュール多様化の頼みの綱だったことは、『零度』でも言及されている。それどころか、本書が語る「零度のエクリチュール」への物語というのは、「マイ言語」が理想化していった道のりだと言ってもよい。作家らは現実にどのように言葉が使用されているか、どのように思考が展開されているかに意識を向け、それに寄りそうかたちで新たなエクリチュールを生み出そうとした。
レーモン・クノーの例はわかりやすい。
クノーはデビュー長編『はまむぎ』を書くとき、自分なりの『方法序説』を書くつもりだったと語っている。デカルトは『方法序説』をラテン語ではなく、専門的な勉強をおこなっていない者でも読めるフランス語で書いたのだった。
なお、『零度』の収録原稿ではもともとクノーへの言及がより多かったが、クノーが有名作家になってしまったため、「自然」を嫌うバルトは単行本化のさい言及箇所を削ったという。
また、社会とのつながりがさらに希薄になった「対物的」な作品として、バルトはランボー以降の詩や、ロブ=グリエに言及する。「自然」は不連続となり、ゆえに思考はテクストのうちで自生する。
引用内、「作品はけっして最初の計画の単なる遅ればせの表現にはとどまらない」と評されている。
「最初の計画」とはエクリチュールの選択のことだが、その点対物的文学は不在を根拠としているため、いわば、その後どうなるかがわからないということだ。ほかのエクリチュールより一段高い不確定性をもち、思考を稼働させつづけることがはじめからプログラムされている、そのようなエクリチュールをバルトは「対物的」と呼んでいる。
自然も根拠も消えるなら、おのずとマイ言語が表出せざるをえない。人間がなににもたよらず使うことのできる表現、使わざるをえない表現とは、現にいつも自分が当たり前にしている行為や思考のパターンからえらびだす以外にないからだ。
すでにそれは、「零度のエクリチュール」である(引用内「中性のエクリチュール」、「白いエクリチュール」も同義)。
「平然」でなく「無垢」とはどういうことか。それはバルトが『サラジーヌ』論で、カストラート(高音を出すため思春期前に去勢した男性歌手)のザンビネッラという登場人物を評した表現において、より明確とおもわれる。
ほかのエクリチュールより一段高い次元にある、赤ちゃんのような生まれたての言葉。非-エクリチュール。それがマイ言語の極致であり、零度のエクリチュールである。そして、それは一瞬ののちにただの既存のエクリチュールと化してしまう。
さらに、中期以降のバルトが価値を見出した諸概念についても、マイ言語との深いつながりを見てとれる。それは俳句における「中断」(無造作な終わり)、写真における「プンクトゥム」(私を突き刺す偶然)、そしてなによりバルト自身が書きつづけた「ロマネスク」(断章を不連続にならべた小説未満のテクスト)において明らかだろう。
晩年の講義『小説の準備』において語った「ノタチオ(メモ書き)」への欲望は、彼のマイ言語への固執をはっきりあらわしている。
また、バルトの例示するカミュやロブ=グリエの作品以上に理想的な「零度のエクリチュール」を、われわれは空想することができる。作者にいかなる選択の余地もあたえられぬその芸術ジャンルを、「脳体験」と呼ぶことにしよう。
作者Aの脳を脳体験することにより、われわれは作者Aのこれまでの経験、思想、記憶、トラウマ、思考のくせ、なんとなくおもいうかぶイメージなど、とにかくその脳に由来するさまざまを、夢を見るようにVR体験できる。この一種のドキュメンタリーは、ひとつの脳から、必ずひとつだけ生成される。それは文字通り作者の「すべて」である。
本人の実体験とその脳体験がどのような意味で同一かは、ここでは問題にしない。使用者によれば、脳体験とはたんに明白な情報があたえられるだけの代物ではなく、それ自体難解で、謎めいていて、疲弊をともなう冒険のようなものらしい。使用者間の解釈の差は、ほかの芸術ジャンルの比ではない。読むことと書くことが思考のダイナミズムでつながりあうように、脳の体験と育成はつながりあう。
脳体験の愛好家は、脳江健三郎やベケッ頭だけでなく、脳谷翔平、あ脳ちゃん、アイザック・ニューロン、岩本徹三パミン、ハリエッ頭・ダフマンなどをつぎつぎとあじわう。そのどれもが零度のエクリチュールだ。彼らは脳体験が最上の芸術であることをうたがわない。なかには動物の脳体験にばかりふける者もいる。
さて、本章では「マイ言語」という切り口で『零度』の物語をたどった。『零度』本文では「アリバイ」という概念を使うことで、作者と作品の関係(制作)を社会的な位相(エクリチュール)へおきかえているが、本章では制作そのものに目を向けた。マイ言語の究極として、脳体験という新ジャンルも空想した。私は、脳体験はそのうち実現するだろうとおもってもいる。
ところがいま語った物語というのは、あまりにも明快すぎないだろうか。そのように確実なかたちで、本当に文学のゴールはさだまっているのか。
じっさいに「制作」をおこなう過程で、マイ言語のあいまいさ、あるいはたよりなさがあらわになるのも事実である。それはだれしも経験するものであろうし、バルトの晩年の苦悩にもつうじている。次章では、マイ言語のかかえる課題について考えてみたい。
4 マイ言語の逡巡
マイ言語とは、「こんな説明的な語りは作り物だ」という反発心のことでもある。
たとえば小説において、マイナーな固有名詞を使うときはその意味がなんらかのかたちで明かされておくべきだ、という暗黙のルールがある。たんに「北門橋」とだけ書くのはいけないが、大分県中津市の市街から小祝という三角島へ移動する場面で「車は北門橋をわたって」と書くのであれば、よいとされる。それなら文脈上、北門橋という語の意味を理解できるからだ。
しかしマイ言語は、そのルールに逆らおうとする。そんなものは悪習にすぎず、いちいち読者への説明のために表現を加工するのはおかしいと。
そしてこの思想を突きつめると、作者は自身にしか意味の取れない表現すら使えるようになる。たとえば私は、小学生のときある同級生が「土日は朝ご飯におかしを食べている」と言ったのを覚えているのだが、私が原稿で、「唐突に啓示されたが自分には実現不能の行為」の意味で「朝ご飯のおかし」という表現を使った場合、文意は私にしか理解できない。
それは一見、『零度』で下記のように指摘される現代詩の性質に似ている。引用内「文体(スタイル)」とは、「作者自身の言語規約」の意味である。
だが「朝ご飯のおかし」は、ランボーの詩のように許容されはしない。なぜなら「朝ご飯のおかし」は、作者も読者もとどかない場で生成する詩的表現ではなく、作者だけが知っているたんなるひとつの明確な情報だからだ。
現にわれわれは日記やメモを書くさい、そのような語を使うことがある。とはいえゴッホ『ゴッホの手紙』にせよパウル・クレー『クレーの日記』にせよ、長く読み継がれることになった私用のテクストに、「朝ご飯のおかし」はほとんど存在しない。少なくとも読者は見つけられない。
このように、マイ言語に全幅の信頼をおき文学作品を成立させるのは難しい。
文学同好会に送った文面の一部だが、マイ言語の価値とは「この世界の手柄」にすぎず、思考はその外側へ広がらなくてはならないと言っている。
じじつどの文学作品をとっても、マイ言語に反する表現はいくらでも見つかるし、それを採用することで思考の範囲を押し広げた作品はかぎりない。フロベールは三人称の現実離れした精緻な描写をおこない、フォークナーは自身が知的障碍者でないにもかかわらず知的障碍者として語った。
つまり制作上の制約を課すことで、かえって思考にあたえられる自由というものもあるのだ。それがたとえ既存のエクリチュールだったとしても、そのルールにのっとることではじめて、作者の展開できる思考がある。
そもそもマイ言語は、「制作に先立って存在し、制作へ終始おなじ効果をおよぼしつづける外在物」というわけではない。マイ言語とはたんに自分が使用した言葉のリストにかぎらない、「ふだんの思考の在り方」だからだ。ふだんの思考の在り方を知るには、制作する必要がある。その意味でマイ言語は、制作のなかにふくまれる。
するとマイ言語は、他のエクリチュールから区別された無垢なる特権性をうしない、たんなるエクリチュールの一種へ格落ちしてしまう。
ならばしかし、なぜだれも日常で「文学」しないのだろうか。
偉大な作家はあまたおれど、日常で使うあらゆる言葉や表現にまで最高密度の文学を行きとどかせていた者はいない。だれも自室で原稿を書くように家族や知人としゃべりはしないのだ。これは奇妙な事実である。
とすればやはりマイ言語は、制作に先立つものとして存在しているようにもおもえてしまう。
われわれがマイ言語をめぐりおこなうこのような逡巡を、ベケットは『名づけられないもの』の冒頭に書いたのではないか。
5 小説を書けないバルト
前章では、マイ言語が必ずしも頼りになるものではなく、根本的にわれわれをまどわす存在であることをのべた。それがたんに、「マイ言語のエクリチュールはすでに既存のエクリチュールだから価値をうしなっている」という意味でないのは明らかだろう。
ここからは、結局のところバルトはマイ言語とどうつきあうことにしたのかを見ていく。彼はついぞ小説を書けなかったわけだが、それはなぜだろうか。
さっそく答えをしめすかのようだが、バルトは小説を書けない理由について、晩年の講義『小説の準備』でつぎのように語った。
バルトはとくに一九七七年の母親の死後、彼女への愛を作品にのこしたいというおもいから、「小説」を書くことを切望した。じっさいに草稿やプロットも書き、彼はフロベールやジョイスのような自伝的長編をめざした。なぜならフロベールらもまた、「断章」から「小説」への飛躍を成功させた作家だったからだ。
バルトは講義でもたびたび小説への欲望を語った。論点はもっぱら「形式」にかんするものであり、つぎの引用では、テクストの途切れ方それ自体について語る。「ファンタスム」は「そこに主体が登場し、欲望の達成を表す想像上のシナリオ」、「巻本」は「内容やテーマではない、エクリチュールの面的広がり」と定義されている。
しかしバルトは、小説を書くという希望をついに果たせなかった。亡き母について多くを言及した『明るい部屋』も、小説ではなく断章形式のままであった。彼は嘘をつけなかった。「人を不安がらせるような嘘」とは、まさに「苦闘史」のことであろう。
彼は最後まで、徹底的なマイ言語の囚われ人だったのである。マイ言語が制作に先んじることをうたがわなかったため、嘘をつけなかった。
バルトにとってエクリチュール、そしてマイ言語への信頼は、文学に価値が生じる根幹であると同時に、彼自身の実存の根幹でもあった。
バルトは一九六九年、文芸誌『海』のインタビューで、「あなたにもっとも大きな影響を与えた著者、または著作はなにか」という質問にこう答えたのだった。
つまり彼は自身の思考のメカニズムを、エクリチュールのメカニズムと完全に同期させているのである。すでに存在する作品、歴史、記憶、あるいは痛切な個人的体験というものは、いくら長いあいだ自らの胸をしめつけ偏執的にかかずらっていようとも、思考そのものを更新しはしない。それを更新するのは、たとえ充分洗練されておらずとりとめのないものであっても、未知の子供の声にかぎられる。未知の子供の声とは、「零度のエクリチュール」にほかならない。
文学の価値は社会で生まれ、社会に消え、社会のなかで完全に閉じている。彼は本当に世界をそのように見、そのように生きているのだ。
バルトは無垢の声を聞き、それにより逆説的に歴史(自然)をあじわっている。エクリチュールの自由をかぎられたものにしたのは彼自身だ。たとえば、ある作家の全作品を一作とみなすことはできなかったか。そうすればエクリチュールは長持ちしただろう。だが彼は自身の欲望のために、「零度のエクリチュール」を一瞬へ圧縮した。それによりつぎつぎと「自然」をあじわうことができた。
彼はマイ言語を追及しながら、それでは原理的にとどかないはずのフロベール的な私小説を欲望した。まるで無性のザンビネッラを求めるかのように。その差分が、彼の思考を駆動させる力であった。
彼は「小説」を書けなかったが、かろうじて日常で「文学」できていたのかもしれない。
あとがき:私小説は難しい
私はおととし脳挫傷で入院したあと、その経験をほとんどそのままトレースするかたちで、四、五百枚の私小説を書いた。本稿で引用した「2割」もその一部である。
現在も、「中津祇園」という故郷の祭りを舞台とした、小学五年の私を主人公とした私小説を書いている。中津祇園は、私の人格形成の大きなバックグラウンドであり、自分が私小説を書くならこれしかないだろうとずっとおもっていた題材でもある。
しかし私はまだ、実体験を作品にするうえでの壁をこわせていないのだと感じる。
もともと私は、実体験にもとづかない小説ばかり書いていた。新人賞の最終候補にのこった二作も、聾者が主人公の話と、雪に閉じこめられた家族がアニメのなかへワープする話だった。
実体験を文にすることは、未来の自分にとって「記録」としての価値をもつ。数年が経ち読みかえせば、さまざまのことをおもいだし、ひときわ貴重なものに感じられる。「朝ご飯のおかし」を避けることは、私への嘘となる。私の私による私のための文学は、私以外のだれにも理解できないが、たしかに価値がやどっているのだとおもう。権力(自然)に依存しないぶん、真理に近づいている気もする。
ストーリーとして読ませるための軸をとおすことや、じっさいに語りそうにないことを登場人物に語らせることに、抵抗してしまう。事実を改変し、大胆な骨組みを設定することが思考を押し広げてゆくと、わかっているのにである。既存のエクリチュールにのっとることが、自分に有用な緊張感をあたえてくれることも知っている。
この「現実」への固着を、私は一種の欲望と自覚していた。バルトも、それを欲望と見た。そういえばバルガス・リョサは、「芸術は現実の否定からはじまる」と言った。
私は次作からは、私小説という、マイ言語が異常な磁力を発揮する場をはなれようとおもっている。バルトはそこにとどまり、そのなかで考えつづけた。孤独で徹底的な闘いだ。文学の問いと実存の問いが同期すれば、「苦闘史」が形式でなく内容であるとか、「マイ言語」が作品でなく作者であるとか、わからなくなる。作品を公にせず生きたエミリー・ディキンソンをおもいだしもする。
私はバルトのようにはできなかった。なぜかはわからない。今後書きつづけていけばわかるのだろうとおもう。
2024年1月
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