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マルクス・ガブリエルの挑戦状『倫理資本主義の時代』

個人のアカウントで生成されるようなメタ・バースのゴーグルは自己意識の拡張と、それについてはアカウント乗っ取り注意と、セキュリティの問題だけになってしまう。

「あなたは、あなたのもの」そう五榜の掲示があるとする。

これは、現実の「資本主義」についての所有権から権利問題についての一般的な理解だと私は思うのだけど、何らかの錯誤かもしれない。

とにかく、ガブリエルの認識については現代社会をうまく表現していると思うが、それに反して、彼の処方箋は、効果が無さそうに思えてしまう。

(道徳的な事実は存在するが、それに対する事後的なものは、因果関係は結びつかないと思える。)

これはインプット(世界に関する客観的妥当性)が正しく、アウトプット(議論の可能性という意味での未来)も正しく、しかしながら彼の思考プロセスが、非常に疑わしく感じてしまう。

プロセスが、このブラックボックスにつつまれるとき、一体全体、アウトプットの評価が出来るのだろうか。

それにも関わらず、議論や思考についてのきっかけとしての可能性はある。

特に、ガブリエルに対する政治的なポジションに関しては、一定程度説明されている。このところのガブリエル批判を踏まえて彼の慎重な姿勢は評価できる。

これは、本書の構成と編集段階で十分な検討がされたのだと思う(長めの注釈が追加されたようだ)。

それを踏まえての辛口批評。6000文字強、長い。


ガブリエルとは誰か

『世界は存在しない』は無世界性である。他の何もかもが存在し、世界だけは存在しない。

メタのメタは、メタとでも言うようなもので、本書では入れ子構造とも説明される。現実の社会で起こる相対主義の問題を指摘しています。

『私は脳ではない』は、物理主義のような自然科学第一主義は(これは言い過ぎですが)、否定されるという事を説明しています。

『アートの力』無世界性が、アートの創造力の部分で、説明されます。ユニコーンのような創造上の生き物についての思考は、相対的なイメージになります。この本は、結構面白いですね。

ユニコーンとは、ウマなのか。ロックスターなのか。ガンダムなのか。資本主義的な形態なのか。これは青い鳥といった方が正しいかもしれない。

近年のテーマは、道徳に関するもので、普遍的な道徳が存在するという前提によって、人々の感情が発揮された社会を志向します。

ここまでが、ガブリエル流のカント三批判書の構成だと思います。(独自の哲学説明→アート→道徳哲学)

概論∶マルクスと行くジゴク巡り

あらゆる「シン」は、なぜ、このようなものになってしまったのか。そういう疑問が、作品のクオリティとは別に、それと別に感想を持ってしまいます。

この場合の「シン」は、ガブリエルの「新しい」啓蒙主義であって、この場合は議論を呼ぶような考えだけど、その穏当さもある。

彼のようなリベラリズムを刷新するような思想は、危機の時代には、妥当するが、やがて平時に虚ろなこっけい劇になってしまう。(いつから転向したのですか、ガブリエル?)

この場合は、今は、危機か平時かという問題で、確かに危機であった、少し前の過去は終わり、延長戦としての世界は、何が起きているのかを、まだ冷静に考える事はできない。

哲学的な議論は、この時間の概念として「今」にしばられるような気がする。

リベラリズムは有効だが万能ではない。ガブリエルのロールズ趣味(政治的リベラリズム)は、やや過激だと思う。

今は20世紀ではないからだ。

神谷美恵子VS社会学者の社会主義

例えば『全体主義の期限』(1955)アーレントは、その何年後かの60年代に、国民国家の終わりを告知する。「今」は、どこまでも前進するような感覚がある。遠くに感じる。

これは何か。

とある社会学者への、昭和の思想家神谷美恵子さんの評は、このような考え方は大変素晴らしいが、現実の問題は、そう簡単ではないのではないか。

社会主義的な正しさは、管理の問題として喝采をあびるも、それは垂直管理の上から下への圧力は、人間にとっての自明なものとしての重力ではない。管理が強調されると、人は月に舞い上がる。

ルナという語は、不吉なものを美しさの中に潜ませる。

ここでは、美しさは、悲劇として、その許容の問題点は、常に発生する。極端な悲劇を、人類の進歩のために利用するわけにはいかないからである。

この社会学者は、教師に大人気だったという。管理の問題だと思う。

今日では、教師が権威を持つとも、持たないとも言いにくい問題もある。

実際に、あらゆるトラブルを解決しなければならない。教師の役割が増えると、何ものでもない子供たちを、彼ら自身でも知らない自分を気づかせ、対話して、自らとの関係性において可能性を実現しなければならない。

ガブリエルの、子ども達の政治参加という奇抜なアイデアは、子ども達の可能性に関する限りは正しい。

教師達は、あらゆる諸事をこなし、自らも先生としての立場を維持し続けなければならない。映画『言の葉の庭』新海誠の悲劇による物語は、まるで『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆と似たような構造を持つ。

赤シャツ(夏目漱石)のような小役人は存在できない。

ここでは生活の問題として自己が、手に届くような大事なものを、自ら手放してしまう。『花束みたいな恋をしたい』に向かって、三宅さんの評論は、まさに自分自身の体験をつづったものだった。

ところで神谷美恵子はフーコーの翻訳者でもある。

インタールード∶ガブリエルとのお勉強

小休止。本書でのアイデアを検討します。

封建性のくびきという考えが説明されている。フランス革命と資本主義の発達が、より良い社会になったという。自由・平等・連帯についてです。

第3部では、様々なアイデアが提示されていて、良かったと思います。

基本的には、第一部で方針を示して、第二部で本論になります。第二部では、リベラリズムを強調した硬直的な古くささを感じましが、後半部分では様々なアイデアが出せれ徐々に盛り上がってくる印象です。

第三部では、処方箋になります。

新しいSNSによる倫理。これはダメそうですね。

20世紀ならば希望として成立しました。

企業に倫理部門の設置と、それを哲学者が行うという設計。これも賛成できない。

特殊ヘーゲル的なユートピアと断じる事が出来ますが、理念を強調するという点では、可能性はある。ただし、人間の社会と感情の問題を、シュミレーション出来るような「経済学の前提」を、後からやってくる社会として、未来を語る事は出来ない。

経済は、社会の前提として共感能力があり、アダム・スミスは、それを足場として、古典派経済学のモデルをつくった訳です。

天才ミルは、自由を功利主義と結びつけ、経済学のバイブルを書いた訳ですが、これは1848年という革命の年ですね。マルクスの『共産党宣言』、アメリカのゴールドラッシュが翌年です。

戦前、ミルの『自由論』を出版しようとした編集者が、吉野源三郎。出版の自由は著しく制限されていた時代。

吉野による『君たちはどう生きるか』。宮崎監督は、資本主義批判を、隠された部分に限定して、物語のいきいきとした部分を表現する映像作家ですね。

映画とは何か、というのが良くわかりますね。

ガブリエルの企業倫理は、現状の企業に問題があるという事実(弱い資本主義批判)に基づいているとはいえ、それをマネジメントの部分で改革する事は難しいと思う。

倫理的な企業は、資本主義の前提であって、個々人の内心は、事後的に形成されるものではない

倫理を国家がある程度、保証できる時代は良かったが、この後期資本主義的な国家の役割は、今では個々人の手に委ねられ、国家は夜警国家のように軍事と最小限の役割しか出来なくなる。

これは、民間と国家の役割分担が上手くいけば機能する。

ガブリエルが重要視するのは、シュンペーターの創造的破壊だが、これは景気循環の期間に対応した概念であって、常に生成されるものではない。経済学の景気循環論(何年周期で変化するか)についてです。

イノベーションと称されるシュンペーターの概念は、他には、起業家精神と新結合だが、主に民間の資本主義的なメリットを論じている。

後期のシュンペーターは、資本主義の万能性は、万能であるがゆえに崩壊すると予言する。(危機に対応したユーロ通貨のバージョンアップなどでしょうか。)

ここにジレンマが生ずる。経済的な問題に先立つ何かがある。その抽象的な部分、それこそが哲学の問題だと思います。経済学を活用するガブリエルの方向性は良い。

イン東京、議論する思想家

ガブリエルの日本での活動は活発であるが、どのような影響を彼に与えているのだろうか。

ガブリエルの、人間の終わり、それは、フーコーの逆解釈と彼は言うが、納得はいかない。

フランス現代思想では國分のカントは、カント先生(哲学史入門Ⅲ)と呼ぶまでの敬意は、まるでアーレントが、ヤスパースを大先生と呼ぶように感じる。(注1、國分のカント)

ガブリエルは、議論の可能性はある。とりわけ日本での活動は、彼の思想に影響を与えるかもしれない。

ここでフーコーの人間の終わりは、彼の思想を検討した上で、判断しなければならない。

それを吟味する「いま」は、やはり「いま」という捉えられない時間軸をさまよってしまう。

ノーラン映画のように(宇宙)空間に、足場はあるのか。ないのか。こういった個人と複数の個人として他者。これは人生の問題になる。

中島隆博氏のように、中国思想から日本の近現代を特に直近の出来事を考える。この場合は、極端なものよりも、内心に訴えかけるような問題意識の提示という形で思考のきっかけとなる。対話的なコミュニケーションが発生する。

この場合で、ガブリエルの相対主義批判は、その内部に矛盾として問題点をはらんでいるという事です。

つまり論理的ではない部分がある。それは、多くの矛盾を、未来と読んではならない。というルールがあると思う。

ガブリエルは、議論のコミュニケーションとしては、倫理性を保っているようにみえる。(この点では斎藤幸平氏と比較される。注2)

神曲∶あらゆる悪をコメディアンと語ること

新実存主義とは何なのだろうか。

この言語学的な物語の登場人物としての私がある。全てのシンは、そう錯誤してしまうのかもしれない。

ジジェク流の哲学は、コカ・コーラの、体内での来たるべき変化として吸収消化された液体はどこに向かうのか。

この点では、コーラを資本主義的な悪と断じる事はできない。ガブリエルの主張は、リベラリズムの利点を資本主義の発展と合わされば、万物に適用するというバランスの悪いものとなっている。

(私見では、危機の時代に有効な方策でした。)

ミル的には、優れた哲学者と、優れた政治を行うものは、哲人王が志向される訳でない。最も愚かな王は、自分の本当の役割を知らない事で、そして全く無意味な事を真実だと語ってしまうことだ。

哲学者や政治家が、真に恐れるべきなのは、自分のありのままが歴史に刻まれてしまう事です。

アーレントのホワイトヘッドが語る事は、哲学者は忘却される事を恐れる。それに加えて記憶される事をも恐れなければならない。

まとめ

哲学者にとって忘却は、その思想の強度が必要であり、私の考えでは、論理性をバランスよく維持した上で、哲学思想の理論という、最も脆弱なものは、その足場を維持する事は簡単ではない。

ミルの自由は、そんな不自由さを常に課されている。

まとめると、ガブリエルの思想に対して、あらかじめ決まっている「前」の部分と、「後」に対応する処方箋の部分をプロセスをもとに評価しなければならない。

この「前」は、カントっぽい概念からドイツ哲学をまとめているのだけど、それに見合う後の事を、もっと深く考えなければならない。

「後」という概念には、私はフランス現代思想が一部で有効だと思うし、ガブリエルはドイツにこだわり続けるという意味で保守的だ。

その思想の大らかさという点では、フーコーが羅針盤のようなテクノロジーとしてのキノウを成す。考古学的なものとして?

それにも関わらず、スラヴォイ・ジジェクのドイツっぽい哲学は、心理学的なポジションから俯瞰していて、結論を保留するという意味では、大らかさがある。

コピ・ルアク∶新しい哲学があるとしたら

気の抜けたジジェクと、明晰なジジェクが同居するのだが、その点では、自己の問題点は、自己の前にある事を知っている。コーラは、高度に資本主義的な商品であるというような主張もある。

彼の自己分析は、社会主義をパーフェクトに実現するという夢。それのみが間違っている事を、彼は知っている。

そこに悪があり、それが無ければ、カフェインレス・カフェは、炭酸無し炭酸水と、結果のみを考えてしまう。

これでは、フンはフンとして弁証法的に行き詰まる。コピ・ルアクとして。私はこのネコ科の動物の糞から作られたコーヒーをドンキホーテで見た事がある。飲んではいない。

彼の指摘する「ウォーク」は、彼自身の自己は真実との対比になると思われる。(『戦時から目覚めよ』)

現在進行系の軸。これはジジェクですら、乗り遅れるような時間軸はダイヤとして存在するかもしれない。

(少なくとも、社会が、これほど酷くなるとは予言者ジジェクも考えていなかっただろう。仏マクロンの憂鬱は3度繰り返された。極右勢力とネオリベの対決です。それに第三勢力もあるようだ。)

これが、自己に対応するアカウントと、あらゆるセキュリティの問題を考える必要性です。

このあたりを検討することができました。良い機会を与えてくれて、ありがとうマルクス。

重要なのは3つ。

保守的な哲学を前提とすること。(極右ではない)

経済学を活用すること。(難しい課題である)

そして第三勢力は、善きマルクスであること。

この3つは、それぞれトリニティーのバランスであり、三体問題でもある。

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注1:國分のカント

國分のカントは、自己から対象と(対象にマッチングする)表象について、ドゥルーズのカントを更新していく営みでした。(自己→対象=表象で、表象による認識がカントの独自性)

ここでは、カントの能力よりも、体系としての三批判書を、千葉雅也さんなら超越論性という現代思想の構成要素となるってわけですね。

ガブリエルは、能力を強調して、まさにそのカント主義的な部分で突き進む。ところが彼は、活動(この場合は議論)が上手い。その中にのみ倫理のきっかけはある。私は、そう考えます。

とにかく、体系の中に倫理があるような、ないような抽象的な部分がある。

カントを先生として(批判的に)仰ぐか、カント主義に成り下がるか。ガブリエルのポジションは、危うい部分も含む。

注2∶斎藤幸平氏について

ガブリエルは、SDGsへの高評価や、脱成長メカニズムの否定と正反対の主張が多いが、斎藤の主張には敬意を払っている。

斎藤は、これまでのマルクスをひっくり返すというコンセプトを、例えばルカーチを用いて新しい解釈によって説明する。

この点では、理論の整合性や辻褄よりも、具体的なアクションに言及している。

人新世の資本論(英題『スローダウン』)は、ますます重要になるかもしれない。

危機感の共有はされている。ところがこの対比によって、ガブリエルは極めて特殊な思想家だという印象は、強まる。

ジジェクよりも、危険だと言えるかもしれない。(思想家の危険度は、必ずしも善悪では評価できません。)

ただし、加速は世の常と、哲学者は乗り遅れないように必死で、そこに脆弱性はある。

これは、社会にひそむ「今」という謎でもあって、あらゆる人間にとっては無力とも思える。その問題意識は強調されると思う。

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