山口宗利

本と映画。since 2020.03。今年の目標:明朗な

山口宗利

本と映画。since 2020.03。今年の目標:明朗な

最近の記事

アトムな秋、読書。朗読『センスの哲学』

男性誌の棚は、雑誌を中心に本が配列されている書店。(写真とは別のお店です) 映画の本。食の啓蒙。服飾文庫3冊。(スペース)、センスの哲学。建築、幕末、戦国時代。 ▢▢◻◻◻ □▢▢▢ 以上が前列ひな壇。 その他は、時計・ガジェット・恐竜の絶滅。これも気になる。 または、アート・刀剣・昭和50年。クロスオーバーも注意する。 アートは、パワーワードである。コレクションの規則性が重要な気がする。 (しかしこの時、男性誌の棚では、アートは主流派ではなかった。季節と流行が

    • 『マンガで読む資本とイデオロギー』ピケティ

      このコミカライズは、なかなかに原作を上手くまとめている。物語として面白いのです。 スラヴォイ・ジジェクが、ユートピア主義と断定したような部分は、いくらかカットされているような気がする。(注1) ジジェクが行うような過剰な批評は、そのポイントが、どこに有るのかを吟味しなければならない。 (ヘーゲルかカントか。精神分析批判か、精神分析か。などなど。ジジェクはイデオロギーという語句を不可能なものと明確に定義している。) 目次を見て、年代で並ぶ配列は、何を表しているのかなと一

      • 黒沢清『Cloud』

        大傑作。 黒沢監督の作品は、日常をパーフェクトな無意味として演出します。 そのため、脈絡の無いように見える展開にこそ価値があります。(本作ではアクションシーンについて物語上の因果関係は全くありません。唐突に発生しますが、面白いから良い。) モチーフの転売については、例示であって、テーマではありません。 そのためテーマが反復され、一見同じようにみえる物語(特に構図)についてのマッチングが醍醐味です。 ある種に固定的で不変に思える人間の存在が、時代の中で変化しているよう

        • 長い夜、ハウ・ツー本の哲学。

          我々は、やれやれである。 あらゆる悲観論が客観に入れ替わってしまうという事は、内省の問題として考えなくてはならないけど、それが成立しない時代はある。 長い夜に、システムを考える。 入門というと、入口から入るという事になる。 全ての入門には、体系がある。 始めにテクストがある。 音楽原論みたいなものになります。 以前読んだのは、秋葉系ミュージック解体新書のようなタイトルです。ハウ・ツー本でした。 ここでのテーゼは、西洋音楽であるオーケストラは、非西洋のロックやポ

        マガジン

        • ジブリ批評のマガジン
          2本
        • 書評シリーズ
          11本

        記事

          センスをアップする『東大ファッション論集中講義』

          隠されたものは、クッションの中にあるばかりではなく、カメレオンのような風景に対する平滑を、ほどこす事もある。 空間はあるが、何もかもが素通りして、見る事が出来ない。 あるはずのものが無い。 本書で取り上げられるミロのヴィーナスの両腕は、失われた部分にこそ価値がある。これは何らかの(映画の)ショットを形成するのだろうか。想像力に訴えかけるからだろうか。 両腕は虚空にあり、その深刻なたたずまいはファッションなのかもしれない。 パターンとしての、ショットは、大げさな身振り

          センスをアップする『東大ファッション論集中講義』

          『働くということ』勅使河原真衣

          自己啓発本のように、モーレツにいく。 この事は、あながち嘘ではない。というのもコンサルタントであるなら、その流儀で仕事をするという事はある。 ところが、著者が主張しているのは、組織論として、例えばコーチングに特化しても、指導する立場から部下にコミュニケーションを取らなければ、自己啓発本的なゴール、それすら達成出来ない。。 こういうのは、テクニックではなく、人生の問題だと。 コンサルが用いるようなテクニックは、フレームワーク、というのですか。それが有効に機能するような、

          『働くということ』勅使河原真衣

          濱口竜介『他なる映画と』

          CUREからの流れに注目します。 この本が構成するのは一連の講義です。 仙台で行われた一連が「他なる映画と」になります。講義の回次が例えば序破急と、3つあらわれます。 ここで取り上げるのは、第3回の「映画の、演技と演出について」です。 CUREという作品は、私がいつか観た時はホラーとして機能していました。これは個人の主観として、そしてマーケティングとしてだと思います。 そうです。黒沢清監督の映画でした。 ここでマーケティングは、映画の枠組みとか、システムを示すこと

          濱口竜介『他なる映画と』

          映画『きみの色』山田尚子

          バンドだったんだ。 そうびっくりしました。 何やらアート系っぽい作品なのかなと思い込みが、春先から発生していましたからです。ビジュアルの印象です。 それで、代表作のごとく映画が誕生する。そう大げさな思いがあったかもしれない。 この場合は、音楽というジャンルは、アピール出来る部分が多い。近年のヒット作は多数です。 繊細な部分を、緻密につないでいくという点で、会話テクストを重視したコミュの作品というよりも余白が心地よい。 ネタバレ。 はじめのカットに注目します。

          映画『きみの色』山田尚子

          転向と再転向『我々の死者と未来の他者』大澤真幸

          宮崎駿の転向論。これは、この本で吉本隆明で論じられる事、そのバリエーションの問題だろうか。 90年代は特に始まりから不穏な雰囲気が、とりわけ日本列島をおおうのだが、宮崎は革命の終わりという意味で、ハイではあった。 何らかの変化に対して、敏感であることは、その好奇心と共に過ぎ去りしものに郷愁を感じ過ぎてしまう。これはエレジーという語ではない。ただ単に過剰なものの事である。 そこで、宮崎は転向を宣言する。 彼の時代としてのマルクスに区切りをつけたものだが、やがて再転向へと

          転向と再転向『我々の死者と未来の他者』大澤真幸

          しんしんとシン『ルックバック』

          ひとつ。テーマは、それに関する観賞という意味でしか存在しない。 もうひとつ。関係性による余白を感じる思いに表現はあふれる。 とても抽象的になります。 それでも、はっきりとした部分もあります。 四コマ風の口上。 3600文字。ながめ。 悪夢の機能、師弟関係 『ラ・ラ・ランド』的な、幻想というのが現実のものになったという世界線。これは不可能性というネーミングは、時代と並走するような方法は、バンドとしての演奏では成立する。 近年では、まさにこの夢が、リアルなものとし

          しんしんとシン『ルックバック』

          マルクス・ガブリエルの挑戦状『倫理資本主義の時代』

          個人のアカウントで生成されるようなメタ・バースのゴーグルは自己意識の拡張と、それについてはアカウント乗っ取り注意と、セキュリティの問題だけになってしまう。 「あなたは、あなたのもの」そう五榜の掲示があるとする。 これは、現実の「資本主義」についての所有権から権利問題についての一般的な理解だと私は思うのだけど、何らかの錯誤かもしれない。 とにかく、ガブリエルの認識については現代社会をうまく表現していると思うが、それに反して、彼の処方箋は、効果が無さそうに思えてしまう。

          マルクス・ガブリエルの挑戦状『倫理資本主義の時代』

          映画『悪は存在しない』濱口竜介

          圧倒的な、観賞後の感覚だ。傑作です。 あったまりますね。 カットやテーマについては言及しますので、お願いします。 6月から拡大上映しているようです。観れて良かったと思います。 * カットがあると、視点とか考える時もある。すると誰の視点かというのが重要になってくる。 カメラが見つめる主体と、その先という構図ですが、作品によっては、人物の視点よりも、自然からの視点が多かったりと、あくまでもイメージとして考える事が、私は多いです。 そうするとセリフなんて無くても良いの

          映画『悪は存在しない』濱口竜介

          『蛇の道』黒沢清

          ネタバレ。 まず、リアリティのようなものを設定する。この場合設定されるものは、黒沢監督お馴染みの事物として、映画の中の映画(画中画)です。 画中画でうつしだされるものは、一つ、動画のトラウマ。もう一つはリモート対話です。 これは、トラウマが、物語を進行させる「移動」を目指すものと理解されます。次にリモートが日常を、とりわけ、この映画の構図では、一対一という会話で、互いに理解できないものと解されます。通常の映画の会話では、左右の反復と、悪役だったら少し変化させる構図で関係

          『蛇の道』黒沢清

          漱石からジブリへ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

          「山路を登りながら、こう考えた。   智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。」(『草枕』) 4000文字。やや長い。 I/Ⅳ 始まるということ 漱石が、こう完璧な小説の始まりを告げると何かが始まる。その始まり感がある。 全面的な夏目フォロワー(これは彼から完全に離れる事は谷崎ですら無理だが)であること。今日では、どういう意味を持つのだろうか。 確かに、小説の始まりは、情景はイメージが浮かび上がる何

          漱石からジブリへ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

          『アントニオ・ネグリ』現代思想

          多数の作者による本は、少数によるものと、どう違うのか。 書くという行為は、全体をテーマにおいて、まとめる力が必要です。 このようなケースでは、マルチチュードとして表現されるのか。はたまたアセンブリとして表現されるのか。 言いかえると、部分はどの様にあるか、部分はどう関係性を持つのか。 哲学は、それを言語に求め、それは壁にぶつかるが、量子的な営みであるのは、全てが不可視であること。それから、すり抜けてしまう。 どのように哲学は、それを考えるのが良いのだろうか。 本文

          『アントニオ・ネグリ』現代思想

          AKIRA『テクノ・リバタリアン』橘玲

          XーMENの世界は、あらゆるメタバースを、統合し引き離す、私は観たことがないのだけど、その世界はディストピアであることによってヒーローは誕生する。 この本の基本的な構造です。 ここでは、AKIRAという語によって、SFの世界観設定で生きること、私たちの現実世界の、世界観設定とします。 この点では、真のSFとは、現実の世界観設定に無いもの。 物語的な想像力は、そこからの逸脱を追求して、つまり存在しないものについて描かなければならない。 ここに映画は、不思議なSFという

          AKIRA『テクノ・リバタリアン』橘玲