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『アントニオ・ネグリ』現代思想
多数の作者による本は、少数によるものと、どう違うのか。
書くという行為は、全体をテーマにおいて、まとめる力が必要です。
このようなケースでは、マルチチュードとして表現されるのか。はたまたアセンブリとして表現されるのか。
言いかえると、部分はどの様にあるか、部分はどう関係性を持つのか。
哲学は、それを言語に求め、それは壁にぶつかるが、量子的な営みであるのは、全てが不可視であること。それから、すり抜けてしまう。
どのように哲学は、それを考えるのが良いのだろうか。
本文3000文字強。長め。
ネグリ入門
ここでは、現代思想誌が発行した総特集アントニオ・ネグリをみていきます。まずは、基本的な用語を確認します。
帝国:「グローバルな政治秩序の傾向」であり、その「ネットワーク上の権力」は「主要な国民国家に加えて、超国家的制度、メジャーな資本主義企業その他の権力」によってつくられる概念(『マルチチュード』上巻の序より)。
様々な団体がネットワークに参加をして、帝国主義的なものから<帝国>的なものに変化している。
今日では、ほとんど受け入れられているように思える。プラットフォーマーが、どう振る舞うかというのが今日の問題意識です。
(例∶メタとabc社の価値観の違いは社会にどう影響するか。答えは難しい。)
マルチチュード:多種多様な社会的生産の担い手すべてを潜性的に含みこんだ包括的な概念であり(略)開かれた概念である(『コモンウェルス』下巻の解説)。
本書でも特に言及される事の多い用語です。社会に対する超越論的な課題は、あいまいであって、定義不可能な部分は解釈の問題となる。
アセンブリ:この概念が、キーワードになりそう。とりわけマルチチュードの課題は定義の問題でした。
現代思想『アントニオ・ネグリ』のテクストを参考に、3人の思想家を検討していきます。
國分功一郎の学問
國分は、ネグリが他でもない民主主義を扱う学者であるという事を示します。
ここでは思想家では無く、学者として評されるのは、ふたつの点である。
ひとつ、テーマについて、まとめる力が発揮されている事。ふたつ、独自の見解を表現する事。
ジル・ドゥルーズの場合では、哲学史+独自の哲学という形式で、その著書は配列される。
國分の書いた文章の構成は以下になる。
0、ネグリとわたし
1、スピノザ
2、ネグリ構成的権力
3、國分の立憲主義
4、ネグリの反立憲主義
5、スピノザのマルチチュード
6、まとめ
以上、本文には無いサブタイトルをつけて整理。
この場合は、この網羅性によってネグリを説明しているし、その上で、独自の見解を述べている。
私の解釈としては、スピノザの概念が指摘するものは、近代の政治システムを考える上で、信仰から世俗にいたる世界線(偶然によるものという意味で)は、本質的なものが欠如している。
あるいは欠如に対する無関心がある。スピノザは、神に関する議論が重要そうだ。
個人は、歴史的な問題によって、過去は今ではないという事実は、権力に関するカテゴリーが誤ってしまうかもしれない。
この場合でネグリのスピノザは誰だという「フー」が現れる。
檜垣立哉のアセンブリ
ここでは、ネグリとバトラーの比較によって、スピノザからアセンブリという方向が示される。
アーレントの持つ何らかのパワーは、これまで実際には形而上的アーレントとして受容されていたが時は経ち、これは、カール・マルクスによるアーレントとなった。ように思える。(注1)
ひとつは歴史を、もうひとつは存在として、これは『全体主義の期限』のヤスパースをこえて、それから『人間の条件』は(活動)能力の問題は、技術を扱っているように思える。
バトラーの思想に、アーレントは、どう影響するのか。
どこか居心地の悪そうな2人の哲学者が、同居するような緊張感がある。
ここで檜垣の文章へ移ると、まとめる力が発揮されている。ドゥルーズ・ガタリのアジャンスマンという概念を足掛かりに、フーコーと結びつき、それを英訳されたアセンブリにつなげる。
ここで、アセンブリは、ネグリ・ハートとバトラーのものになる。(著書名です)
バトラーはアーレントの公共「あらわれ」を積極的に引用する。これは、単数性の一人一人の生を、これに対応する複数性は社会が上手くいく方法があるはずというもの。
(『人間の条件』能力として活動力は、3つの構成要素、活動・労働・仕事に分かれる。これを抽象的にまとめるのがアーレント流です。)
ここで緊張感は、相性の良さが、どこか互いの思想を、カドのたつ何かが、まさに「あらわれ」る。
この20世紀と、21世紀(『帝国』が象徴的かもしれない)は、前と後という歴史以上の意味を持つ。
『まつたけ』(アナ・チン)をコモンズの検討という点ではネグリ批判であって、これはアセンブリ概念で捉えると、まつたけによって、つながる。
資本のメリットは、まつたけの持つ巨大な地下茎にあるかもしれない。
ネグリとバトラーの概念の二重性によって、近年の現代思想の問題点がより深く検討できるという事ですね。それがアセンブリでまとめられる。(注2)
ネグリを語るのは楽しい。
斎藤。コモン〈共〉のslow down
斎藤幸平にいたると、ネグリに、一層強いシンパシーを表明している。
『アセンブリ』では、ルカーチのマルクスを再評価するという『マルクス解体』とシンクロしているようにみえる。
それを遡っても、人新世の起源としてコモン〈共〉の概念は、ネグリによるものだった。
近年では英訳された『slow down』(人新世の資本論)だが、このタイトルは、運動自体の意味論として機能する。
日本よ、これが世界だ。提言として、問題意識のグローバル化で、この場合は現実的な解決手段が必要だということ。脱成長コミュニズム(環境マルクス)は誤解されやすい。
アメリカよ、これが世界だ。これは、アメリカと世界という二分法にのみ作用する。内部の意識改革は、常にイデオロギーの不可能性につきあたる。
左派加速主義(マーク・フィッシャー、彼もルカーチの愛好家だった)も、加速しないの号令を聞き入れるべきだった。これは彼の思想が、難解である事に由来する。
加速主義の実際的な部分は、技術による転倒にあり、それはガジェットとして魅力的に映る。
想像力は、真に欲しいものを他者として発見するのだが、イデオロギーと無関係である事はない。完全なカフェインレス・コーヒーは、水だ。資本なし資本主義は、何か。
あらゆる資本主義は、その超越論的な限界を、私達自身では、俯瞰できないという神話的な世界設定になる。
そのため、より難しい方角へ、不可能な領域に向かうのが世の常であって、映画のようなマーケットの問題として柔軟に演出する訳にはいかない。
アセンブリのリーダーシップは、経営学や行動経済学の問題だろうか。哲学はどういう学問であるべきか。
この点で、ネグリは検討する事が、これは建設的な営みだ。
門「 」
スラヴォイ・ジジェクの言うような、日本のデーモンを考える。
(デーモン・スレイヤーというワードが意味するものは何かというテーマ性でもある)
これはアーレントが悪と断じたものの両義性である。
ヨーロッパから見ると、日本は多文化理解の難しさはあるが完全に間違うことも出来ない。
デーモンは浅草の雷門に2人いてペアリングがされ(これは対であるということ)、それは悪とは呼ばない悪である。その完全な定義は難しい。真実でもあり、フィクションでもある。今日も明日もそうである。
そして、その門を一度くぐると、全てが儀式化されたオートマチックな身体性に移行する。寺社の参拝は全てが、あらかじめ決まっているかのように粛々と進む。所作は全霊として祈りは、世俗世界そのものだ。
それでも内心の問題は、絵馬に書き出すと、いくらかでも実現出来る。
これこそが、金銭を媒介とする非情な資本主義の利点でもある。
心の問題は、言語で表現できない何かとして「 」も、言語で表現する「筆致」も、別のやり方として社会を形成する。
現実はその選択の問題である。
アセンブリの関係性から、マルチチュードに戻っていくような、その可逆的な部分は、どこか単独である事に意味があって同時に複数であるという事実がある。
それは、このようなものだろうか。寺社を俯瞰すると、その大きさに愕然とするが、その思いを抱く事は、まれである。
ミニチュアのような自己を、常に想定する訳にいかないからである。
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注1
アーレントのマルクスは、柄谷行人『哲学の期限』(『Isonomia』)で示されるような問題意識。
ここでは、ハイデッガーの古代ギリシャと、アーレント古代ギリシャが示されて、その歴史的断絶を乗り越える枠組みを提示する。
その中でも、アーレントの権力論の引用は印象的だ。
権力と暴力の背反がある。「あらわれ」に対応する権力は、暴力の中には見出だせない。彼女の公共による統治は理想化された状況では成立する。これは、今日ではますます不可能になっている。
解決策として、観念論ヘーゲルが足りないという指摘は、ジジェクに特有の症例に思えるが、この場合ではアーレントの「フー」に作用する。このため、ジジェクにとって、ネグリより柄谷が評価される。
ジジェクにとって、柄谷は観念論的な大らかさが強調されるのが良くて、ネグリ(ドゥルーズあるいはスピノザ)は、その変化が気に入らないのかもしれない。
この場合は、現実に対する哲学の有効性が試される。その意味はバトルロイヤル。哲学者はファイトクラブで生きる。
全体主義という用語は、多義的である。これは、ジジェクのイデオロギーを、覆いつくすものかもしれない。クッションの綴じ目?大風呂敷の結び目?それは何か。
注2、國分アーレントの視座
パターンだけ示します。檜垣によるアーレントは「あらわれ」によって定義される。これはバトラーのアセンブリ概念の礎になっている。
國分が示すようなアーレントは、スピノザとの対立によって定義されている。(『アーレント読本』)
この場合では、スピノザとネグリの立憲主義に対する考えの違いが示される。一方、スピノザとアーレントでは、別の何かが対立しているように思える。
革命(アメリカ)のアーレントについての事だろうか。権力の場合、更に抽象的なアーレントになるはずです。
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