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ペッパーズ・ゴースト(伊坂幸太郎)


概要(裏帯より)

中学国語教師の壇には、ある条件下で他人の明日が少しだけ観える特殊能力があった。
彼は生徒から、奇妙なコンビが暴れ回る小説原稿を渡される。
小説内の二人組、「ネコジゴハンター」とは一体何なのか
父の言葉、悲観と楽観、猫と野球……。
未来と過去は絡まり、物語りは加速していく。


無関係を装って同時並行する複数のストーリーが、指数関数的な速さで、読者を惹きつける引力を持って収束していく。

伊坂幸太郎先生の醍醐味が惜しみなく発揮された作品だったように感じます。

伊坂先生の私なりの楽しみ方


最近になってミステリーを齧り始めたのですが、

伊坂先生の作品に散りばめられた伏線にはふんだんに遊び心が加えられているように感じます

というのも、ミステリーには伏線がつきものですが、先生の作品にはところどころに訳の分からない伏線点在し、

しかもそれらをつなぎ合わせるとそれっぽい解釈や先の展開が数々と浮かんでくるんです

どの道が正しい結末に辿り着くのだろう

一度本を閉じて、立ち止まって頭を巡らせるほどに、

様々な可能性を面白可笑しく饒舌に喋る伏線たちが私を嘲笑っている、そんな風に感じます。

だれでも解釈できるけれど、誰も結末を予測できない。

読了後、そんな痛快な印象を受けました。

そしてさらに、最後の一行を通り過ぎても

結局あれはなんだったの?(笑)

みたいなことがあります

そして少し考えてみると、これもまた多様な解釈の可能性が潜んでいることに気づくのです。

これに関しては、寛容にも解釈は読者の裁量に任されいることが多いです。

まあこれは、抽象的な話ばかりしても仕方ないので、

以下、本作に関する私なりの解釈の一つを書き残してみたいと思います。

皆さんはどう考えますか?


私なりの解釈


私が取り挙げるのは、小説を書く女子生徒、布藤鞠子です

概要でも触れましたが、本作は、数人の登場人物視点から語られる伊坂節が展開しつつ、さらにもう一つ

時折、壇先生の女子生徒が創作した小説のストーリーが挟まれています。

ここからネタバレになるんですが、壇先生はトラブルに巻き込まれていく中で、その小説に登場するネコジゴハンターの二人組に現実世界で遭遇してしまうのです

どういうこと? なんですけれども、

ネコジゴハンターは過去に猫を虐待した人間を痛めつけて回っていて

実は布藤鞠子の父親も標的でした。

父親がやられる現場に遭遇した鞠子は、後々彼らをネタにして創作した、と推測されていました。

作中では、そういうことになっていたのですが、

しかし、ここから奇妙なことが起こりました。

壇先生はネコジゴハンターの二人組と行動を共にするのですが、途中で女のネコジゴ関係者を成敗する場面は、過去に壇先生が読んだ原稿の内容と一致していたのです

作中では特に言及することなくしれっと流れていますが

しかもその後の展開も、時折小説の原稿形式に語られている。

もう彼女は知らないはずなのに

彼女、布藤鞠子は原稿を書いた時点では知らないはずの未来が見えている?

未来? 

壇先生にも未来が見える能力がある。

もしかして鞠子にもそういった能力があるのかも?

さらに考えを進めてみます

彼女が未来予知的な特殊能力を持っているとして

なぜそれをもとに未来を予測し、それを小説の原稿として壇先生に渡したのか

それは、小説の内容を覚えていたことによって物語の展開がどのような影響を受けたかを考えてみれば検討が尽きます。

壇先生は監禁されるという絶体絶命のピンチの際に、ネコジゴハンターの二人組と出会います。

壇先生は彼らを知っていることを二人に話し、その結果このまま返せないということで連れていかれます。

壇先生は彼らを知っていたことによってその後のいざこざに巻き込まれ、

そして、最終的に彼の活躍によって事なきを得たのです。

小説を読んでいなければ、壇先生は連れだされることはなかった。

すると、後の爆破テロも、その他の事件も解決されることはなかった

ということは、真の立役者は、布藤鞠子?

とここまで考えても、あまり納得感はありません。

全ては彼女の手のひらだったと結論付けるには、あまりにも彼女は物語の中心から離れすぎています。

改めて整理してみる

なぜ、鞠子の物語はペッパーズ・ゴーストという物語の中に入り込んできているのか

そこにはどういう意味があるのか

冒頭の人物一覧表、時系列の矛盾、自らを物語の登場人物だと語るアメショーの楽観論

そして何といっても目に留まったのはニーチェの話題

―ー 一つでも魂が震えるほどの幸福があれったなら、それだけで、そのために永遠の人生が必要だったんだと感じることができる、と。もし、そう生きることができたなら、こう思えるはずなんです。ツァラトゥストラがまさにこう言っていましたが
これが、生きるってことだったのか?  よし! じゃあ、もう一度!――

物語りの中の物語、登場人物たちは作家によって操られていて、どんなに頑張ろうが、どんな思いを抱こうが未来は決まっていて、何周しても同じ人生絵を繰り返してどうしようもない。

それでも、それが自分の思い通りだと思い込むしかない。

そんな悲観的な皮肉と、小さな精神的希望と、最後に痛快な趣向を凝らした傑作なのかもしれません。

おすすめです。

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