人生には三つのものがあればいい~意訳と異訳の狭間~
最近読んだ本で紹介されていた言葉;
「なるほど~巧い事言うよね~」っと思ったのですが
本にはこの言葉が喜劇王チャップリンの言葉だと紹介してありました。という事は元々は日本語じゃないという事。
私は普段中国語⇔日本語の通訳翻訳をしています。
と言っても、どちらも企業からの依頼が多く、会議通訳や社内監査、営業活動、技術指導、翻訳は協議議事録、株主総会、契約書、といったものが多いのでエモーショナルな文章を訳す事は多くありません。
でも、色々な書籍を読んでグっと来るフレーズがあると「このフレーズを自分なら中国語でどう表現するか」と気になってトライしてみたりします。
三つの要素の中でコレを「ウィットに富んだオチ」と取るのか「最後に厳しい現実で落とすブラックユーモア」と取るのかは人それぞれでしょう。
コレだけを英語にしている事で
①前の二つと区別化できる
②納まりのいい字数と音の並びにできる
③敢えて訳さず英語の響きを残す事で洒落た感じを演出できる
という効果があるのかなと思います。ここまで考えて、じゃあ一体どんな原文をこう訳したのかが気になりました。
すると、このセリフの出典は映画の「ライムライト」で、原文は
「そう、人生は恐れさえしなければ素晴らしいものだ。
必要なのは、勇気、想像力、そして少しのお金さ。」
と言うのを、この部分だけで独立したものにする為短く端折って標語のように翻訳されたもののようでした。
それにしても何て大胆!すんごい意訳。そもそも原文には
「人生には三つの物があればいい」
って書いてないし、結果論的に要素が三つ挙げられているからという、完璧後付けフレーズ。
しかも
この三つの単語を「希望と勇気とサムマネー」としている事。
私は英語力ほぼ皆無なので、見たまま「勇気」「想像力」「少しのお金」としか訳せません。コレを「すり替えだ」と言える英語力は私にはありません。
ただ、私が翻訳で心掛けているのは「読んだ時に『如何にも何かの翻訳文』と言う硬い文章ではなく、日本語で読んでも全く違和感のない翻訳」をしたいという事なので、確かに普段から意訳も多用します。
が、
という文章を
と原形をとどめないような形にまでデフォルメするのは、少なくとも私の好みではないな~と思いました。
でも、ここまで思い切った意訳にするなら
「希望と勇気とサムマネー」要素をすり替えてまでキリのイイ音律で終わろうとしたのに、どうして前半の部分の音律にはこだわらなかったのかなと思いました。
「人生には」という言い回しが、解説の前置きとしては正しいでしょうが、もう言葉を換えて、一つは翻訳さえするのを放棄までしてるんだから
いっその事「に」も取っ払って、5、7、5のリズムでまとめてしまえばフレーズとして全体がまるで詩の如くピッタリ納まったのにな~と思いました。きっとこの訳者さんは「には」というダブル助詞を使う事で
「に」という助詞が持つ位置関係を強調したかったのでしょうね。
翻訳をするようになってから他の同業者に
でも私的には〇〇という語句は中国語としてはこの文章にしっくり来ても、そのまま日本語の文章に直訳で使用しても「日本語としてはしっくり来ない」と思っての判断です。
日本語に、ないワケじゃない〇〇という言葉。だけど日本人の日常会話としては滅多に使われない〇〇。
だから本当に一言で翻訳と言っても、そこには決まった型があるわけでもなく、個々に重きを置くポイントも違えばボキャブラリーも全く違うので、翻訳者の力の差や感性の違いで作品が生きもし、死にもするでしょう。
私は原文にある単語やそれに近い類義語を使う事より、原文の持っているニュアンスを日本語としても、できるだけ違和感のない日本語で表現したいと思うのです。
そういう意味では数年前に、香港で「超有名」を超越したところにいる神的な作家金庸の作品翻訳を手掛けられた岡崎由美さんという翻訳家の日本語版を読んでから原文を読んだ時に、日本語で読んだ文章が脳内で蘇るくらい原文の空気感そのままですごい感銘を受けた事がありました。
また、初代三蔵法師である鳩摩羅什(くまらじゅう)という僧侶は経典(代表作:阿弥陀経、般若経、法華経等多数)を訳す時その原文の音の並びまでなるべく壊さずに母国語に翻訳したという伝説が残っています(意訳、創作がひどすぎると言う評価なので、まさにこの「人生には三つの物があればいい 希望と勇気とサムマネー」的な意訳を超えた異訳に近い代物なのかもしれません)
(*余談ですが三蔵法師は人の名前や僧侶としての芸名(?)的な固有名詞ではなくて、仏教の三種の蔵《経典》に精通した僧侶の事を指す総称で、西遊記に出てくる三蔵法師は三蔵法師という名前ではなくて玄奘《げんじょう》と言う名前の三蔵を極めた僧侶の事です。)
・・・到底不可能なことのように思えますが、できるだけ原文の持つ本質と雰囲気をできるだけ保持して再現できるようになるのが私の通訳翻訳者としての夢です。
そんな私がnoteを始めて間もない頃に出会ったこの小説作品の冒頭:
この作品。
この冒頭の文章を見てすぐ思ったのは
「・・・・・ 厄介 ・・・・・」
企業通訳は大半の場合「文章を書くプロ」の翻訳をするわけではないので、時に「よく見ると変な日本語」という事も多くて頭を悩ませるのですが、この作品のように言葉を巧みに使いこなす方の文章も難しいなと思います。
この表題の時点で既に難儀です。
美しい言葉で表現することで生まれる面白さ。
これは尊敬語、謙譲語、丁寧語、美化語を使い分ける日本語ならではの特徴です。
外国語に訳す時は、この言葉を美化する事で生まれてくる味とか空気感を表現することができない・・・。
でもこれは冒頭部分の「つかみ」ですから、
冒頭で面白いと思わせられなければ、後に続きにくくなってしまう・・。
主人公が全編通して「そういう喋りである事」そして「美しい言葉でありながら、きわどい内容を喋っている事」で、日本人でさえ「自分達がふだん使わない日本語」という部分に感じる面白さと他のキャラとの区別化。
これを外国語にして全キャラが平坦なセリフに代わる時、各キャラの特殊さをどう表現するか、ここが勝負になるのです。
詢川 華子さん
誤解なきよう申し上げておきますが「厄介だな」と思ったのは、私自身がこの詢川 華子さんの言葉遊び能力に引き込まれて「自分が翻訳するならどう訳すだろう」と思うほど興味を抱き夢中で読んでしまったからに他なりません。
この度、kindle出版をなさったそうです。
普通の記事も熱い思いがこめられておりますが、制作に4年の月日を要したと仰るこの作品。なかなか話題にしにくい難しいテーマでありながらエロさはなくアップテンポな感じで最後までサクサク読めます。
私も購入させていただきましたが、海外での購入だと何故かレビューが書けませんでしたので、この記事で以て華子さんにエールを送ります。