わたしが子どもの頃、祖父のところで働いていた人の中に、みやいちさんというおじさんがいた。 今の自分の年齢から逆算すると、当時で多分40前後だったのだろうか。みやいちさんは普段はとてもまじめで人が良く、わたしたち3人きょうだいのことを、ぼっちゃん、じょうちゃんと呼び、夏休みに祖父の家に遊びに行った時などには、相撲をとったり、川で泳いだりと、一緒に遊んでくれたりもした。 けれどそんなみやいちさんにはもうひとつ普段の姿からは想像できない、まったく別の顔があった。みやいちさんはいわゆ
朝の駅は葬列のように混沌とした静寂に満ちている。 それぞれのベクトルの指し示す方向へ移動することだけを目的にぜんまいを巻かれたかのようなのっぺら坊人形の群れが、それよりはまだ血の通った人間らしいティッシュ配りの突き出す怒気を含んだ拳を、表情ひとつ動かさず最小限の動きでよけながら進んでいく。 少しいかれかけてる金髪のまだ若い男が、朝の横断歩道で歩行者のためにいったん停止している車に向かって無意味に吠える。 「バッカヤロー、とっとと行きやがれ!」 車にも、男にも、誰もがそ知
恥と滅びの美学というものを失くした魑魅魍魎どもが跋扈するこの世界を紐で括られたシシャモを高々と振りかざし進むのだ。 シシャモの旗印のもとに。 晴れ渡った空の下、青い海の上に虫のように一面黒い船がぷかぷか浮いていた。まるで戦争みたいに。見とれてたら道路わきのフェイクメタルのラバーポールにぶつかりそうになる。こんちくしょうこんにちわ。悲しみよこんにちわ。 水辺の景色はいつだって綺麗で、わたしのこの酸っぱい魂ですら、油断したら奪われそうになってしまうのだけれど。 うっとりとば
雑草とはいえ小さな色とりどりの花を懸命に咲かせているのを見ると、摘み取ってしまうのは忍びない。 おかげで毎年この季節、この小さな庭は小さな花をつけた雑草だらけになってしまうのだけれど、ふとその雑草の葉陰などをのぞくとそこには幾匹もの小さなまるむしどもが群れて、一見のところ無秩序にうぞうぞとうごめき、こいつらにもなにか生きるべき指針というか目的というか、未来に対する覚知のようなものが果たしてあるのだろうか否かと若干の危惧めいた感情をわたしの中に揺り起こすのだけれど、そのような
眠れない。ゆっくり羊を数えてみる。 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹。そうしてやがて羊はくるくる回り始めくるくる回って回りすぎてもう一体何匹いるのか数えることすらできなくなっていく。 午前二時。 「眠れないの?」あの子の気配に問いかける。「うん眠れないの。こういうときはねぇ月を見よう」あの子がそういいながらベッドを抜け出すから少し面倒くさいけどわたしも起きだす。 カーテンを開けて窓を開けてそれから空を見る。「月出てないね。曇ってるね」わたしが言う。「今日は月のない夜なの?」
いじの悪いひねくれ者の女神様がいきなり泉の中から姿を現わし 「お前はこれから先の一生を永遠におしゃもじとして生きてゆくのです」と言うので わたしは「それは困る。そんな風におしゃもじになって熱い炊き立てご飯の中に頭を突っ込まれたり、他人のご飯ばっかりよそい続け、自分はいつも乾いてカリカリになったご飯粒まみれでいるなんてそれはあんまりひどすぎる」 などと懸命に苦情を言い立てて、何とかおしゃもじにされることだけは勘弁してもらったのだけれど、その代わりにいじの悪い女神様はわたしの目と
駅の長いエスカレーターを降りて急いで駐車場へ。今日も遅くなっちゃった急ごう。せこいちっぽけなビルの向こうに見える西の空は店じまい寸前の夕焼け。紺色の混じったオレンジみたいな色。名前のない色。もうすぐ紺色と溶け合ってく。75点くらいかな。息は飲まない。まぁ普通。そこそこの夕焼け。 それから道。夕焼けに向かうこの道。遠近法を教えてくれる教材みたいに道路の両脇オレンジ色の街灯がはるか彼方交わる一点を目指して続いてる。でも最後の交わる一点は見えない。いつもそう。そこんとこが見えない
からんと乾いた公園の敷石の上には、すっかり干からびて切れ切れにちぎれた幾匹ものミミズの死骸が、かつて生きていた時の湿り気だとかぬめり感だとか、そんな名残なんて全く感じさせないくらい、恐ろしいほどの沈黙をもって、厳然と木っ端のように散らばっていた。この世の中はあらゆるものの死骸で満ちている。 あまりに高いヒールのサンダルを履いてきてしまったわたしの歩調ののろさをものともせず、あの子はいかにも愉快そうにずっと先の方へと自転車をこいで風のように走っていく。あの子は自転車に乗る振り
野暮ったい眼鏡の太った女の子が電信柱の横で散歩中の飼い犬の頭を何度も膝で蹴っていた。 なにが気に食わないのか、犬が何か不始末でもしでかしたのか、ただでさえ不器量なその顔は下卑た嘲り笑いのせいで益々不細工に見え、多分もともとは白かったのだろうその灰色の雑種犬は、ただうつむいたまま不条理な嵐が過ぎ去るのを、哀しそうな目でアスファルトの舗道をにらんだままじっと耐えていた。 犬の胴体半分から後ろは、足も尻尾も含めて体毛がぼろぼろに抜け落ちていて、まだらに見える茶色っぽい胴体とほと
ほっけさんがいつの間にやら高級魚になってしまっていた。気付いたのは今年のはじめくらいだろうか。 ほっけが食べたいほっけが食べたいと、ほっけ経をしつこく唱える夫のため、ほっけを買い求めようとスーパーへ出向き気付いたのだ。 思えば、魚嫌いだった子供の頃の私にとって、唯一いや、塩鮭と合わせ唯二、美味しいなと思えるお魚だったほっけさん。 スーパーへ行けばいつでも会える、一匹98円ほどを支払えば自分のものにさえできるそんな心根の優しいほっけさんのことを、私はどこか心の奥底で見下
走って走ってずいぶんと懸命に走って、はっと気づいた時にはもうすでに猫になっていた。推進力を生むために遮二無二前後に振りまくっていた指先には尖った爪が、毛でおおわれた手の甲をひっくり返してみれば、そこには肉球がぺたんとかわいらしく、いや、かわいらしいわけがない。かわいらしいなんて思ってる場合じゃない。毛むくじゃらの獣になってしまった自分を一体全体どうして愛でていられるものか。 ああ、あの夏みかんの木がある古い家の角をまがった時か、それとも草ぼうぼうの廃屋の前で躓いて転びそうに
待ち合わせの人を探す駅ビルの中、あの子がパン屋さんの前で立ち止まって独り言みたいに言う。「いいにおい」まるで夢みたいな顔でパン屋さんの中を見ているから思わず「買っていく?」って言ってしまって言ってしまってから少し後悔する。こんなところ通らなきゃ良かったって。だけどあの子のほっぺは輝いてて憧れでいっぱいの目をしてて。こくんと頷くあの子の手を引いて二人一緒に混み合ったパン屋さんのなかへ入っていく。焼き立てほかほかのパンを得意げに高々と掲げて「ただいま焼き上がりでーす」と甲高い声で
かちっと音をたててクリックすると古い日記が次々に呼び出されてきて、それを随分いとおしげに読む自分を多少は馬鹿げてるようにも思うのだけれど、それはそれで確かにかつてそこにあったわたしで、わたしの濃密な思念で、たとえ芋虫の夢のようにどろどろで意味がなくても、少なくともわたしにとってはそれで十分なのに違いなく、そうして怪しげな点を繋いだ線の上を綱渡りみたいにゆらゆら揺れながら生きていくというのもちょっと楽しいのかもしれない。楽しくないのかもしれない。どっちでもいい。
牛模様の牛がもうもうと土煙を上げて突進してくるのだ。そこで私はメンソレータムを武器に迎え撃つ。牛だってメンソレータムを黒い鼻づらに塗り付けられるのは嫌なのだ。ましてや目の周りになんて塗られた日には、それはもう牛悶絶、ぎゅうの音も出なければ牛乳も出ない。そもそもあの牛模様の牛が乳牛かどうかすら私にはわからない。それほど乏しい情報の中で、わけのわからない牛模様の牛の突進に立ち向かわねばならぬのだ。 鼻水やらよだれやらでドロドロの牛の鼻面に触ることを考えると足がすくむ。それ以前に
ハムスターが死んだ。朝電話で母がそう言った。 今日の朝起きてみたらもう死んでいた。そういえば最近あまり餌を食べなかったと、母がそう言った。 仕事が終わってからあの子と一緒に母の家に行く。車の中であの子にハムスターが死んでしまったことを伝える。あの子は少し息を呑みそれから「ハムはどんな風に死んでたの?」と言った。 2年前の夏、飼い始めて3ヶ月ほどであの子は喘息様の咳をするようになり、仕方なくわたしはあの子に言い聞かせハムスターを母に預けることにした。「いつかアレルギーが治っ