もう慣れた
待ち合わせの人を探す駅ビルの中、あの子がパン屋さんの前で立ち止まって独り言みたいに言う。「いいにおい」まるで夢みたいな顔でパン屋さんの中を見ているから思わず「買っていく?」って言ってしまって言ってしまってから少し後悔する。こんなところ通らなきゃ良かったって。だけどあの子のほっぺは輝いてて憧れでいっぱいの目をしてて。こくんと頷くあの子の手を引いて二人一緒に混み合ったパン屋さんのなかへ入っていく。焼き立てほかほかのパンを得意げに高々と掲げて「ただいま焼き上がりでーす」と甲高い声で宣伝する女の人にぶつからないように気をつけながら、トングとトレーを持って楽しそうに色んなパンを選ぶ家族連れやカップルをよけて、「食べられるのあるかな?フランスパンみたいなのなら大丈夫だけど。これとかこれ。これなら大丈夫だよ。これにする?」「ううん、いい」あの子は首を振る。「やめるの?」「うん」
結局パン屋さんの棚の前でわたしは少し切なくなる。こんなにほかほかいいにおいのする暖かい湯気でいっぱいのお店の中で少し切なくなる。こんなにたくさん人がいる混雑したお店の中でなんだかわたしとあの子二人ぽっちでどこかの遠い海を漂流してるみたい。すぐ目の前の棚に並べられたふわふわのパンも、それを楽しそうに選んでる人たちも随分遠いね、って心の中であの子に言う。好きなだけ好きなパンを選んでるあの子を少しだけ想像してみるけどそんなことしても仕方がない。仕方がないから仕方がないの箱に切ない気持ちをぎゅうぎゅう押し込んでそれで何もなかったことにする。それでパン屋さんのことは忘れる。あの子は何もいわない。だからわたしだって何にも言わない。「行こうか」あの子の手を引き店を出る。もう慣れた。
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