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手帳をなくした。なにも困らなかった
手帳をなくした。
最後に書いた記憶があるのは愛知へ帰省する新幹線の中なので、そこにおいてきた可能性が高いと思う。隣に座ったサラリーマン風のおじさんが、座った瞬間チップスターを開けて一気食いするのを見て、チップスターとはこうやって向き合うのが一番正しいのだ、と考えながら、改札内の売店で買ったタレカツのおにぎりサンドを食べた。東京名古屋間の100分って、何かできそうで何をするにも中途半端な時間で、何もしない。疲れが溜まって頭が回らなくて、モヤがかかったような文章をこぼすように手帳に書き留めて、そのまま眠ってしまったのだった。帰省している間は一度も開かなかったし探さなかったので、なくしたことに気づいたのは、やはり帰りの新幹線の中だった。
一日一ページの、ほぼ日手帳のオリジナルサイズ。予定の管理のためというよりは日記を書くためにつかっていた。毎日開く気力はないので、書かない日があったり、休みの日にまとめて書いたりしていた。特に、誰と会って何を話したか。言われて嬉しかったこと、話しながら整理されたこと。書かなければなかったなかったことになってしまうわけではないのに、何度も反芻しながら書いた。あとは仕事との付き合い方とか、体調のこととか。
そんな手帳をなくした。
ここで重要なのは、なにも困らないことだった。
改めて手帳との関係性を考えた。
まず、手帳をなくしたからといって2月12日(手帳をなくした日)までの日々がなかったことになるわけでもないし、写真やインスタのストーリーも残っている。
ものをなくしたら困るのは、それが生活するのに必要だったり、手に入れるのに苦労したり、代わりが効かなかったりするものだからだろう。そういう意味で、手帳がなくなっても困らなかったのは、余裕があるとは言い難いわたしの生活の中で、手帳が唯一と言っていいほど数すくない嗜好品だったからかもしれない。
手で書くことは贅沢だった。
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手で書くことには限界があった。大抵会話や頭の中でぐるぐると考えていたことを書き起こすために使っていたので、思い出す会話や頭で考えることのスピードには筆記が追いつかなくて、手によって書かれて生まれてくるものたちは、予定調和で、新しい発見などはなかった。
パソコンやスマホを使って文章を書くとき、コピペできて、気に入らなかったらざっくり切り捨てることができるのは便利だ。書きながら構成を整えたり。こういう便利な機能がなかったら、出来上がる文章は全然違ったものになっていると思う。この文章が面白いかどうかはさておいて、わたしの頭の中は、すくなくとももっと散らかっている。文章を練っていくうちに、なんだか難解で、硬く「それっぽい」文章になっていって満足する。そうしてみんな、似たり寄ったりになる。出来上がった文章を読んでみる。と、あれっ? 本質はどこにある?
絵が下手な子供だった。何もない場所はないはずなのに、建物と建物の間、ものとものの間にあるものを、どの程度、どうやって描いたらいいかわからなかった。世界がどうやって成り立っているのかわからなかった。描いても描かなくてもちぐはぐだった。もし、ものとものの間のものが、地の文だとしたら、ここに打ち込んでやたらと練って書いた文章は地の文を失ったものかもしれないと思う。
それを埋めるための手帳かもしれない。なにもない日々がどうやって埋まっていったのか、どうしてとめどなく流れていったのか。
(はああ〜。また、何を書いているのだろう、わたしが考えているよりももっと、ほとんどの人にとっては、書くことや言葉に触れることが、そんなに致命的なことではないようなのに。)
人はもともと、手で書くスピードで生まれついているのだとしたら? そして手で書くスピードでしか考えられないこともあるのなら? インターネットにアクセスすることなく、目を覚ましたり、文章を書けたり、音楽を流せたり、本を読めたり、写真を撮れたり、そうやってネットとの距離を取らせてくれるものがあるのは便利さとは縁のない場所で、ありがたいことだ。自分を好きでいられる、数少ない自信を持てる部分。
手帳を使いはじめて一年ほどと、まだ日が浅いからかもしれないけれど、読み返したことはほとんどない。日記なんて読み返してナンボのはずなのに。そもそも、まとめノートなどを作っても振り返ることをしないし、自分の書いた文章なんて恥ずかしくて読み返せない性格なのだから、日記を書く意味なんてどこにあるのだろうと考えたのも一度や二度ではない。
こういうものは即効性があるものではないのかもしれない、ということにしておく。漢方のようにじわじわと? 読み返すにはまだ熟しきっておらず、半信半疑のまま時間を費やすのが良いだろうか。このnoteも一つの手段に過ぎないけれど、いつか、25歳のこの日々でさえ青く、幼く、青春だったと笑って振り返ることができたらいいなと思う。
ありがたいことに、そこらじゅうに手帳がある環境にいるので、手帳ライフは滞りなく進んでいる。そして学校では習わなかったけれど、決してすくなくない数の、尊敬する人生の先輩方が、記録をつけておくことをあくまで推奨していること。これは心に留めておこう。
あと最近気付いたんだけどね。決めることは最大の自己投資であり応援だ、前に進むための。わたしも賭けに出る必要があると思う、旅に出る必要があると思う。書くための読むための明かりとテーブルを決めるのは、わたしにしかできないのだ〜。
P.S.ヘッダーの写真、太陽みたいなパッタイ