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タオルが落ちていた

隣の部屋のベランダにわたしのタオルが落ちていた。
なぜ気づいたのか。後ろめたい気持ちを抱えつつそっと覗き込んだのだ。たくさん洗濯バサミがついているタイプのプラスチックのハンガーには、タオルを二枚干せるクリップもついており、その挟み方が甘かったのか、隣の部屋のベランダの室外機の上に着地していた。手を伸ばせるような隙間はない。どうしよう。インターホンを鳴らして、タオルが飛んでいってしまったんですけど、とでも言おうか。いやいや田舎じゃあるまいし。この時代にご近所付き合いなんてあったもんじゃない。エントランスのインターホンがなっていないのに、部屋のドアのインターホンが鳴ったら気味が悪いだろう(二つのインターホンは、音の違いで区別されているのだ)。
ここで、お得意のまーいっか炸裂である。最近のまーいっか事情としては、耳にイヤホンを挿していつか音楽を流そうと無音のまま歩いたり、いつか仕舞おうと部屋の鍵を握りしめたまま駅まで15分歩いたり、Amazonで誤配送された商品を泣き寝入りしようとしたり、なかなか順調なご様子である。くたびれてきていたしちょうどいい機会だ、飛んでいったのではなく捨てたのだ。
それから一週間くらい経ったころだろうか、雷雨の翌朝、洗濯物を干そうと窓を開けたら、ベランダに見覚えのあるタオルが落ちていた。まごうことなき隣のベランダの室外機の上に落ちてまーいっかと放置したわたしの茶色いタオルである。
たくさんの思いが胸に去来する。
ありがとう!! 優しいな。少なくともお隣さんは変な人ではないな。でも、100%わたしの部屋に投げ込めばよいとも確信できないはずでは?? 覗き込んでいなかったら、突然舞い戻ったタオルを見てわたしはどんな感情になっただろう、タオルの恩返しとでも思うだろうか? 雨で濡れて重くなってる‥タイミング選んでくれよお〜。いやわたしだったら、ちゃんと留めておけよ最悪💢と思っただろうな。
そんな朝の出来事を引きずりながら渋谷駅の改札を出たところで、地面にタオルが落ちていた。もしわたしが落としたタオルが風に乗ってここまで飛んできていたら、面白いだろうな〜と妄想してひとりで笑った。タオルの物語とわたしが交差する、スクランブル交差点。

「あ、恥ずかしくないですよ!!!」

ピンポーンという音とともに赤いランプが灯った一秒後、振り向いて出た言葉。改札を通るとき、接触が悪かったのかスムーズに通れなかったのだ。絶対に脳みそを経由することなく口からこぼれた、そんなスピードだった。
相手はマユさん。大学時代のサークルの先輩だ。
自分でも自分の発言に驚いて、お互いにどんな反応をすればよいのか迷った一瞬ののち、わたしはまだ改札から抜けられていないのに、どでかい笑いがこみ上げてきていた。「いや、すみません、残高足りなかったみたいです、とかさあ! そういうのが来ると思うじゃん!」そう言ってマユさんも笑っていた。わたしは依然として改札に取り残されていて、駅員さんに「少し下がってからタッチし直してくださいね」と声をかけられた。それからは、わたしのとっさの発言に対する考察が始まった。普段気の利いたタイミングで面白いことなんて言えないので、わたしは驚きつつ嬉しかったし、なんなら考えても言えない自分が、考えずに言える自分に嫉妬した。そして駅員さんはわたしの「恥ずかしくないですよ」宣言を聞いていただろうか。聞いていたら、その真理を知りたいに違いない。それくらい、どでかい声で、意味不明なほど自信満々に「恥ずかしくないですよ」を炸裂させたのだった。

心当たりは、一週間前に、はじめて吉本のお笑いライブに行ったことだった。全く予習していなかったが、こんなにも笑えるのかというくらい大笑いした。そこである芸人さんがネタにしていたのが、通ろうとした改札に前から人が歩いてきて通れなかったり、乗ろうとした電車のドアが目の前で閉まったりして恥ずかしい思いをした時の対処法、みたいなことだった。おもろいな〜と笑いながら、わたしはそのシチュエーションで、自分が当事者であろうと傍観者であろうと恥ずかしいと感じたことはないので少し意外な発見だった。そうかそれは恥ずかしいことなのか。わたしにちいさな、恥ずかしさのアイデアがインプットされたのだった。

そして、改札でピンポーンの音を聞いたのだ。
社会的に見ればわたしは恥ずかしいシチュエーションに陥ったってことだな恥ずかしい人を見るといたたまれなくなるよねでもわたしは恥ずかしいなんて思ってないからいたたまれない感情になって欲しくないな──「恥ずかしくないですよ!!!」である。
夜の部屋で黒い影が視界をかすめた瞬間それが招かれざる客(ゴキブリ)とわかるような、なつかしい人に会っちゃったりするのかなあ〜と思って久々に降り立った地元の駅のホームで、なんのありがたみもなく至る所で出会ってしまう中学の同級生のような。それまでその存在を忘れていたのに、自分から、予感のようにこぼれ出た言葉だった。

恥ずかしいと思うことは少ないに越したことはない。そう認識した瞬間に、過去も今も未来も、恥ずかしいという感情の網が張り巡らされ、心を搦め捕られてしまう。改札をスムーズに通れないことなんて、わたしはいまでも恥ずかしくもなんともない。その恥ずかしさは理解しかねる。が、どでか声で「恥ずかしくないですよ!!!」というのは、その発言自体が恥ずべきことだっただろうか???


新幹線にて

友達もいて働く場所もあるけれど、この地球上でわたしを一番必要としているのは今いる場所ではないというのはわかる。地元に帰るとわたしも東京に戻りたくないと思うし、出発前には胸が不意にギュンッとなって、ちゃんとグラグラする。一番辛いのは新幹線の中だったりする。根っこに湿った柔らかい土をつけたままの雑草みたいな自分が、乾いた土の上に居場所を求めるような気分。何をしているんだろう? 求めてくれる人がいて、自分も離れがたく感じているのに、それならずっとここにいればいいのに、そうしない。人間とは本当にナンセンスなのだ。
それでも品川で新幹線を降りて、湯気が立ちそうなほどモウっとした空気をかき分けて山手線に乗ると、地元で過ごしたことが夢のように感じられる。その心の切り替えは、前よりも早くなったと思う。
何をしているんだろうと足元がぐらつくときがある。でも、半日もかからず大掃除を終えられる1Kの部屋、洗い替えのないパジャマ、身の回りのものを収めたキャリーバッグを片手でヨイショっと持ち上げるとき、そういうのがなんだかちょっと誇らしくもある。幸せかと聞かれたら、卑屈でもなんでもなく、わたしの手が行き届き抱え切れるキャパシティーのなかで、いまいま、幸せである。


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