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全てを「過程」にすると幸せになれる:エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読んで

自己紹介

読書好き人生模索系会社員(国家公務員→ウェブマーケ→コンサル)
読書を通して自分の人生のあり方を模索しているアラサー突入男性です。
ハードワーク・長時間労働ができない自分を認められなかったけれど、
読書を通して少し光が見えてきた。そんな思索と哲学について書きます。
服と筋トレも好き。

幸福は結果ではなく過程から生まれる

われわれはある具体的な満足を目指して生産するのではなく、われわれの商品を売るという抽象的な目的のために生産している。
われわれは、物質的なものであれ非物質的なものであれ、事物は全て買うことによって獲得できると考えている。
こうして、事物はそれに対する我々自身の創造的な努力とは無関係に、我々のものとなるのである。
おなじようにわれわれは、 自分の人格的な性質や努力の結果を、金や特権や権力のために売ることのできる商品と考えている。
こうして、重点は想像的行為の現在の満足でなく、完成された生産品の価値におかれる。
そのため、ひとは自分に本当の幸福を与えてくれるただ一つの満足感ー現在の活動の経験ーをみのがし、捕まえたと思った瞬間に失望させられる一つのまぼろしー成功という幸福のまぼろしーを追い求める。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』より

フロムはここで、
なにかを追い求めたり、生み出そうとしているその過程にこそ幸福がある。
だが、人は多くの場合、行動の結果生み出されるものだけをみているために幸福を見逃している、と指摘している。

あんなに欲しかったものが、手に入れた途端色褪せる。

小学校の時、遊戯王カードで欲しくてたまらないレアカードがあった。
お小遣いを貯めて、なんとか手に入れた。
嬉しい。
でもお店から家に帰る頃には、何だか虚しい感じがする。

高校生の時、ラグビー部だった。
全国大会に向けて、毎日毎日必死で練習した。
苦しいけれど、仲間がいたから楽しかった。
結局県大会決勝で負けてしまった。

どちらの経験も、結果はどうあれ、
目指すものに向けて頑張っている過程は幸せだった。
でも、
目指すものが手に入った/入らなかった瞬間の感情は、その過程で経験した感情よりも大きなものではなかったような気がする。

どうやらこれが、結果=「成功という幸福のまぼろし」を追い求めていたということらしい。
真に自分が得られたものは、過程=「現在の活動の経験」から得られる幸福感だったのだろう。

ここから考えられることは、
幸福な人生にするために、「自分のやること全てを過程にする」
ということなんじゃないだろうか。

全ての行動は、何かしらの結果を求めて行うことである。
仕事だったら、昇級・昇進。
部活だったら、全国出場。
遊戯王だったら、レアカード入手。(?)

そのどれも、成功であれ失敗であれ、いつかは「結果」は出てしまう。

そうなった時に、それまでの「過程」は楽しかったなぁ、と思うかもしれないけれど、
ああ、終わってしまった。
とも思うだろう。

だったら、その「結果」も「過程」にしてしまえばいいんじゃないか。

遊戯王で考えよう。

レアカードを手に入れたいと思った時、
目的が収集だとしたら、手に入れたらおしまい。
少しの虚しさが残って、また別のカードを集めに行くだろう。

でももしそのレアカードを手に入れたい理由が、
自分のデッキを強くして、ライバルに勝ちたいから。
だとしたら、手に入れても終わりじゃない。

レアカードが手に入ってから、デッキを組んで、練習が始まる。

この時、レアカードは、「結果」ではなく「過程」の一部に組み込まれることになる。

そうなれば、カードを手に入れた後も過程を楽しめそうだ。

人生でも同じだ。

仕事での昇給・昇進だけを目的にしたら、結果が出た時、いちいち虚しくなって、自分を見失ってしまう。

でも、「理想の生活のために必要な金額を稼ぐ」という、
大きくて時間がかかる目的を置いてたとしたら、
昇給しても続きがある。
昇進できなくても、まだ終わりじゃない。
ずっと過程が続いている、ずっと楽しむチャンスがある。

要は、「短期ではなく長期で自分の人生を捉えて、大きな目標のための過程として人生を楽しむ」
ということなんじゃないだろうか。

人生全てを過程にすれば、全てが楽しめる。
何だかわくわくする、素敵な考え方だ。

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