「#未来のためにできること」に応募してみました①「人類の多くは人工知能技術自体の連続的発展ではなく、折り目折り目に現れるインターフェイスのパラダイムシフトに反応しているだけである」
ふと気が向いて文藝春秋とNoteの共同企画「#未来のためにできること」に応募してみました。
期待されている「エッセイ」の定義にちゃんと該当してるかはともかく…
とにかく「これまでに投稿した内容から1000字以内の抜粋を起こす」という企画自体に興味を覚えた訳ですね。ところがいきなり「(それも文字数にカウントされてしまうので)図にキャプションもつけられない」という問題に直面。
なお実際には当時の人工知能関連技術の進歩は「深層学習」分野だけでなく「決定木」分野などにも及んでいたりします。
以下の投稿で触れた「スタンレー・スティーヴンズ(Stanley Smith Stevens)の測定尺度(1946年)」の動揺に関係してくる内容ですね。スティーヴンズは統計で用いる尺度を、とりあえず「名義尺度(Nominal Scale)・順序尺度(Ordinal Scale)・間隔尺度(Interval Scale)・比例尺度(Proportional Scale)」に分類したのですが、人工知能分野において分類と回帰を巡る数理の飛躍的発展があったので時代にそぐわなくなってきたという話…
決定木理論はさらに「ブラックホールの物理に類似する原理で情報を圧縮する」双曲空間理論とも密接に関わってくる最新理論だったりします。
こちらへの言及も、まとめてバッサリ諦めました。1000字の壁、本当に恐るべし…
パラダイムシフトの方向性②古典的数理最適化アルゴリズムから「応答システム(インターフェイス)」を備えた「ルール駆動エキスパートシステム」へ。
実際に歴史に現れた順番でソートすると、まずこの話から。正直いってこの歴史区分は思いっきり端折るしかありませんでした。
第二次世界大戦(1939年~)中に「高速化した航空機の振る舞い(右旋回、左旋回、上昇、下降、加速、減速)を予測する撃墜技術」として萌芽した情報理論はノーバート・ウィーナー「サイバネティクス(初版1948年)」が刊行された時点では多くの事象が単純な線形フィードバックの組み合わせで説明可能と考えられていたが、やがて生物の世界では内臓間のホルモン分泌連鎖や個体間のフェロモン(外部ホルモン)分泌連鎖といった「生物独特の準安定状態を前提とする非線形フィードバック網」の方が重要という事実が明らかとなり、1961年における増補箇所はこの変化を受けての説明に終始する展開を迎える。1958年に発表されたロジスティック回帰技法やニューロン・コンピューティング(単細胞パーセプトロン理論)は、まさしくこの様な「多変量解析の時代」の落とし子だったという次第。
mycinの様にそれなりの体裁を整えたルール駆動エキスパート・システムが登場してくるのは1970年代に入ってからだが(それでも人間中心主義(Humanism)の強かった当時の世相は「予診専用」と銘打っても中々納得してはくれなかった)、それ以前にMITのジョセフ・ワイゼンバウムが単純なパターンマッチ技法を使って書き上げた「自然言語」応答インターフェイスELIZA(1964年~1966年)が話題となっていわゆる「人工無能」やコンピューターRPGにおけるNPC(Non Player Character)の応答システムの大源流となっている。
皮肉にもルール駆動エキスパートシステムの本格的普及が始まったのは「深層学習」研究が牽引した第三次AIブーム(2010年代以降加速)に入ってからといわれている。実際に「深層学習」がルール制定に役立った側面がなかった訳でもなかったものの、ぶっちゃけ導入企業も使用ユーザーも「中身が本当はどうなっているか」なんて気にも留めなかったのである。
この「第三次AIブーム下における(深層学習を部分導入した)ルール駆動エキスパート・システム普及」を牽引したのがIBM Watson事業とも。
そう、こちらの文脈の説明ではELIZAの名前は登場しないのが常なのですね。なお、文字数の関係で本編から泣く泣く削ったのが以下のエピソード。
このProlog、大学時代ちょっと触ってましたが、とにかくまともに動かず、泣く泣く卒論で使うのを諦めた経緯があるのです。なお当時は(単細胞パーセプション理論しか存在しない)ニューロンコンピューティング分野の状況たるや、さらに絶望的。こうした経験があったので、第三次人工知能ブームが始まってからもしばらくは「機械学習の普及」を傍観視していたという…
パラダイムシフトの方向性③「人間が天然に備える知性こそ至高」と考えた上での模倣から「純粋なる数理最適化の追求」へ。
実際の出現順でソートすると二番目にくるのがこの時代。まず、当時の雰囲気を把握するのに欠かせないのがクローネンバーグ監督映画「スキャナーズ(Scanners, 1981年)」のこの場面です。
超能力者である主人公は(パソコンもカプラーも使わず)公衆電話のボックスから電話線経由で敵基地のサーバルームのサーバに接続。
そこから莫大な量のデータを盗み(脳内に転送した?)、最後にサーバルームのサーバに念を送り(電話線を火花が走る!!)、サーバを爆破する。
ホラー映画「マニトゥ(The Manitou,1978年)」でも、病院を占拠した太鼓の悪霊を対峙する為にインディアン祈祷師が病院のサーバールームから「コンピューターの精霊」を呼び出していました。
さらに遡ると「自我に目覚めた家用(?)人工知能が女主人を幽閉して子供を産ませようとする」近未来SF「デモン・シード(Demon Seed,1977年)」なんて映画もありました(D.R.クーンツのSF小説「悪魔の種(1973年)」が原作j)。
この時代の「人間中心主義(Humanism)」なるもの「コンピューターについての知識がまだ世間一般に浸透してない」次元どころか「ドラッグをキメてこそコーディングが正確かつ素早く進む」と断言する元ヒッピーがゴロゴロ屯している恐るべき世界だったという次第。そして困った事にこういったタイプの代表格が表計算アプリ「Lotus123」開発者ミッチ・ケイパー(Mitchell David Kapor,1950年)や、Apple創業者スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs, 1955年~2011年)辺りだったという…
当時の欧州がポストモダンやポスト構造主義、日本がニューアカデミズムの時代だった事も忘れてはなりません。しかも欧州のポストモダンはソーカル事件(1995年)を契機に沈滞ムードに入りますが、日本のニューアカデミズム文化はそういう都合の悪い事実を隠蔽してなおも存続…
そんな時代に好まれた数理とも数理でないともいえない微妙な理論がカオスやフラクタル、ホログラフィック宇宙論やファジー推論、1/fゆらぎ理論など。もちろんこれらの研究の多くはそれなりに堅牢な科学実証主義的実態を備えている訳ですが、当時それに接近した研究者の多くが「難解な分野なので何か引用してもそれが正しいか間違ってるか容易に指摘出来ない」「それを利用して自らを神秘的に演出するのに使える」なる不真面目なスタンスだったので特別な発展を見る事なく、いつの間にか「メインストリームでの過剰な間での持て囃し」が終わっていたという話…
一方、この時代区分についての言及がやや尻切れ蜻蛉な感じで終わらざるを得ないのは「純粋なる数理最適化を追求する路線」の嚆矢として知られるIBMのチェス専用スーパーコンピューターBIG BLUEの具体的中身が社外に伝わって業界標準となる様な展開がなかったから。
オープンソースソフトウェア(OSS=Open Source Software)全盛期以前のプロダクトだから仕方のない側面も?
ただしIBMのエンジニアは「Deep Blue事業の目的はIBMが伝統とするPower System、すなわちより低レベルの(すなわちマシン寄りの)アーキテクチャーの洗練だった」と述べています。ヒッピー的観点からの「不当な独占」などそこにはなかった?
つまりこういう事?
ある意味Deep Blueプロジェクトによって検証されたアーキテクチャーはハードウェアからフロントエンドインターフェイスまでを統合的に扱うIBM Power Systems(2008年)や人工知能プロジェクトIBM Watson事業に継承された。なおそのアーキテクチャー基底はPower CPUを最初に導入したAS400(1988年~)の時代にまで遡るという。
IBM Watson事業にとってLinuxOS同様、最近話題のTransformerアルゴリズムもまた所詮は「部品」に過ぎず、既に取り込みが始まっている。
最近はマイクロソフト社のAzure事業もまた人工知能事業を取り込み「シリコンからサービスまで」を標榜する様になったが、IBM Watson事業はその先駆者という位置付けになる(ただし上掲の三井化学の事例ではTransformerそのものでなくMicrosoft Azureに導入されたそれを間接的に利用)。
パラダイムシフトの方向性①「ルール駆動エキスパートシステム」から「深層学習」へ。
そして話は再び「GAFAが出揃う時代を描いた」私のnote最初の投稿に。
そして2005年にAmazonがAWSを発表するとネットのトラフィックが爆発的に増大。2012年までに「(テキストや静止画だけでなく)音声データも動画データもインターネット経由で鑑賞する時代」が訪れ、ユーザーの利用履歴から得られる生活情報の全面化が進む。この状況を抜きにして現在のTransformer系アルゴリズムの勝利は成立し得なかった。
その一方で、どうしてTransformer系アルゴリズムは使用セル数を増やせば増やすほど性能を向上させるのか、その快進撃はどこまで続くのかは相変わらず未知数のままという…従って将来シンギュラリティが勃発するか否かも、あるいは起こるとしたらどういう形になるかも未知数のまま?
いや「何が起こるか分からない」なんて気楽に考えてるのは競争の外側に置かれた一般人だけで、常に競争の最前線で戦い続けてきたIBM Watson事業やMicrosoft Azure事業などは「最後的には総合力で優った勢力が顧客を総取りする」ゴールを見据えて展開している様にも窺える。Amazonがハードウェア事業を中々手放さないのもまた、おそらくこのゲームからの脱落を恐れての事。
ここまで視野を広げると、ChatGPTを開発するOpenAIの未来は思うほど明るいものではないのかもしれない? だからこそ慢心せずさまざまな展開を考えているとも見て取れる。
韓非子「五蠹」を引用した意味。
まさしく上掲の「目まぐるしく各時代の人間心理が変遷していく様」が重なってくるからですね。
ここで思い出すのがいわゆる「赤の女王仮説」。
これについては、こういう話も。
東京女子大学「赤の女王仮説」
そしてこういう話が以下に述べる「6面体サイコロを振ると7の目が出る様になる様な時代変化への対応能力」という話題につながっていくのです。
「6面体サイコロを振ると7が出る」という事。
実はこれが一番書きたい事だったのに、本文中ではオマケ程度にしか触れられませんでした。
そう「コインを3回投げて3回とも表が出ました。統計学は裏が出る可能性もあると教えてくれるでしょうか?」なる質問への答えはあくまでNoしかない(1回の試行からの最尤推定は「その時出た目の出現率が1=100%」としかなり得ない)。それを教えてくれるとすれば「事前の外形観察」くらししかなく「コイン・四面体・六面体・八面体・十二面体・二重面体・トランプ・ルーレットの類」についてのその種の研究こそが古典的確率論の基底をなしていた。しかしもちろんこの手口は森羅万象のあらゆる確立事象に適用可能とは限らず、しかも人間には「見たいものしか見たがらない」悪癖が存在するという次第。
以前カール・マルクス(Karl Marx,1818年~1883年)の思想遍歴について触れた投稿では「マルクスだけが視界内の7の目(新しい時代の息吹き)を誤差として切り捨てなかった」なるアプローチを選びました。
ヘーゲル左派の主要論客だったフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804年~1872年)やブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809年~1882年)は「宗教」や「民族」ばかり視野に置いて「(フランスや英国では最終勝利を収めた)国家」の概念を誤差として視野外に置いていた。
19世紀欧州の革命家達の大半は「大恐慌の都度革命騒ぎが勃発するとは限らない近代国家の登場」という現実を視界外に誤差として葬り去る事に概ね成功していた。
今回「7の目」はまた別ニュアンスでの登場となります。より具体的には…
【1940年代〜1950年代】第二次世界大戦中の命懸けの環境下で芽吹いた情報理論。当初こそどんな問題でも線形フィードバック概念に分解する事で対空砲によって敵機をバタバタ落とす様に解決してみせると勢い込んだものの(戦争の記憶が薄れるにつれ)次第にロジスティック回帰の様な多変量解析の重要性を受け入れていく。
「7の目が出る(予想外の展開となる)事は死に直結するので何としても回避しなければならない」なる戦時下的脅迫概念からの脱却過程?
手塚治虫の漫画も1940年代に執筆された「魔法屋敷(1948年)」や「鉄腕アトム・シリーズ(1951年~1968年)」最初期作品では「人類と共存不可能と判断した敵」の弱点を「えげつない生体実験」で探り当て「えげつない大量殺戮兵器」で殲滅する回が多い。そういえば当時の日本はまだGHQ占領下…まさしく「戦争後遺症」と呼んで差し支えなさそう?
【1960年代〜1970年代】ノウハウの蓄積が進んで本格的なルール推進エキスパートシステムが登場するのは1970年に入ってからだが上掲の様に「精神科医の振る舞いを見掛けだけ真似するインターフェイス」すなわち人工無能の御先祖様自体は1960年代にはもう既に現れていて先行して「人間そっくり‼︎」と巷を騒がせていた。
冷戦機独特の「隣人に共産主義者のスパイが紛れてるかもしれない」不安を背景とする「人間でなくとも簡単に7の目を出す(人間でない正体を曝す)のを回避出来る(そして自分にはそれが見抜けない)」事実を突きつけられた時に起こるパニック反応。
逆にマルクス主義的反体制姿勢側は「体制側に従順に従っていると7の目を出さない(人間らしい振る舞いに欠ける)操り人形に変貌させられてしまう」と警戒心を高めた。
ギレルモ・デル・トロ監督映画「シェイプ・オブ・ウォーター(The Shape of Water,2017年)」はここでいう「(次に述べる人間中心主義と表裏一体の関係にある)戦争後遺症」と「共産主義スパイへの恐怖」を上手く織り込んでいる。そんな息苦しい環境で一般人が窒息せず生活出来ていたのはマクルーハン「機械の花嫁(1951年)」に描かれた様な華やかな広告文化、そしてTVを流れるフレッド・アステアやジンジャー・ロジャーズの華麗なるダンスがあったからという解釈。
「メインフレームを人類の共通敵認定する」ヒッピー達の活動はこの頃までに遡り、最終的には対抗手段としてのパソコン製造販売に手を染める展開を迎える。
【1980年代〜1990年代】1980年代に入ると流石にマルクス主義的反体制姿勢の伝統も形骸化が進行し、欧州のポストモダンやポスト構造主義、日本のニューアカデミー系の論客は「人間の天然の知性こそ至高」と考え、愚直なまでにその模倣を試みた第二次人工知能ブームなどに権威付けを求めた。1990年代に入ってソ連が崩壊するとこうした動きは沈静化を余儀なくされたが、IBMのチェス専用スーパーコンピューターBig Blueが人間のチェス名人を破っても「そんなの大した事ない」「むしろターミネーターみたいに人工知能が人類に反逆する予兆」と難癖をつけ続ける事でなんとか面目を保つ。
当時は熱帯の孤島の美しい風景を背景とするエロシーンや、まだ少女の域を脱しないブルック・シールズの美しさばかりが話題となった恋愛映画「青い珊瑚礁(1980年)」にすら「文明から離れてこそ人間は人間らしい生活を送れる」なるメッセージが込められ、救援船に発見されると生まれた赤ちゃんと三人で「服毒自殺」を遂げるラストシーンに「文明圏への復帰の拒絶」なるメッセージが込められた、そんな時代でもあったという次第。
映画「E.T.(1982年)」においても、大人達は恐怖心からオロオロと愚かな振る舞いを繰り返すばかりでE.T.をちゃんと人間として対等に扱って友情を育むのは子供達ばかり。こうした時代精神は「良くも悪くも有事に際して自律的に行動出来るのは体制に組み込まれてない老人と子供のみ」なる世界観に立脚する「童夢(1980年~1981年)」「AKIRA(1982年~1990年)」を発表した大友克洋も確実に共有していたと推察される。
「人類=自分は7の目を出し続けている(機械的に予測可能な範囲を超越した存在)」なる厨二病めいた脅迫概念(人間中心主義)の維持が不可能に。
マルクス主義的反体制姿勢が形骸化した補償として「機械=敵は一見従順に振る舞っている様に見えて、いつか必ず7の目を出す(人類に反逆する)」なる脅迫概念が高まる。
その一方では1990年代とは1960年代=1980年代を支えたハイファンタジーやサイバーパンク文学やモダンホラーの書き手などが高齢化と時代変遷への対応の遅れから次々と脱落。特にSF小説分野では読者層の科学実証主義的解像度が高まり、マイケル・クライトンやJ.P.ホーガンやルディ・ラッカーやグレッグ・ベア級の設定構築力が要求される様になっていく。同時に登場人物の若返りが要求される様になり、J・K・ローリング「ハリー・ポッター(Harry Potter)シリーズ(1997年~)」、米国TVドラマ「バフィー 〜恋する十字架〜(Buffy the Vampire Slayer, 1997年~2003年)」、高見広春「バトル・ロワイアル(Battle Royale,1999年)」といった新世代作品の躍進が始まる。
【2000年代】それまで単細胞パーセプション一本槍であまりパッとしなかったニューロン・コンピューティング分野が中間層やバックプロパゲーション技術などを獲得して「密かなる進撃」を開始。
なまじ期待されてなかった上、しばらくは「(科学諸表が科学者や技術者の間でだけ強要されてる感じの)BtoB展開」だったので特に警戒される事もなかった?
どうやら上掲の決定木分野におけるランダムフォレスト技法登場に押された「深層学習第二の冬の時代」なんてのもあった模様?
【2010年代〜2020年代】上掲の様にまず躍進を開始したのは(深層学習理論導入によってルール構築が飛躍的に容易となったルール推進エキスパートシステムだった。2017年にTransformer系アルゴリズム、2022年にChatGPTが登場して以降の深層学習アルゴリズムの大躍進は皆さんも御存じの通り。
その一方で21世紀に復活したシンギュラリティ概念は「過去の脅迫概念が全て並列的に陳列されたデパート」状態に? 発生の経緯が忘れられた後も不安の次元は消失せず、ただ積み上げられていく「悪魔のスェーデンリレー」という感じ…
振り返ればここまでおよそ70年。人類、思わぬ遠くに来たものですね。そして、細部まで追ってもやはり「反対勢力」は本文でも指摘した様に事態の本質まで観ようせず「インターフェイスに脊髄反射で散発的に反感を表明している」だけとしか思えません。一見烏合の衆にしか見えませんが、これを悪用しようとするインフルエンサーが現れたら最悪の展開も…
はっと。「書けなかった事」を集めたら、余裕の1万字突破。そんな感じで以下続報…