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【とある本格派フェミニストの憂鬱12パス目】技術革新と認識革命③「磁力と重力の発見」あるいは魔術由来の技術革新について。

以下の様な流れがあって…

「小数と対数の発見」は大著「磁力と重力の発見」を「科学技術史物理バージョン」とすれば「科学技術史数学バージョン」という認識。「磁力と重力の発見」そのものについてもこれまで様々な要約に触れてきましたが、以下の投稿を読んで改めて興味が湧いてきました。そのうち読破に挑戦するかもしれません。

上掲「数理的溢れ話3パス目」


結局、買ってしまいました。山本義隆「磁力と重力の発見」。

大著ですが、大体の内容を把握してると、こちらの方の素晴らしい要約があるので調べたい内容に速やかにアクセス出来て非常に便利です。

特に私の場合、ルネサンスについての基礎教養を主にブルクハルトの「イタリア・ルネサンスの文化」やウォリアム・マクニール「ヴェネツィア東西ヨーロッパのかなめ」などに頼ってきたせいで…

以下の様な描写に新鮮味を感じています。

文藝復興とも語られる14世紀から16世紀にかけてのルネサンスがヨーロッパ文化にもたらしたものは多方面に渡り、もちろん17世紀以降の近代科学を準備するものであった。しかしその道は錯綜し曲折している。私達の主題である磁力と重力の認識にかぎっていうなら、ルネサンスの功績はなんといっても魔術ーーなかんずく「自然魔術」ーーを復活させた事にある。実際力概念の発展とりわけ遠隔力の受容にとって、魔術の復活は単なる後退ではなく屈折して入るが基本的には前進であった。実際この時代、磁力は「隠れた力」の典型として、もっぱら魔術的・占星術的因果性を裏付けるものとして言挙げされていたのである。そんなわけで磁力は察し当たって自然魔術の研究対象であった。

山本義隆「磁力と重力の発見2ルネサンス」333ページ

冒頭序文の記述と対応してくる箇所ですね。

ニュートンが天体間に働く重力を力学と天文学に導入して世界の体系を解き明かしたとき、今では考えられないくらい厳しい批判が、一方では新しい科学の提唱者であるデカルトのエピゴーネンやライプニッツから、他方では守旧派ともいうべきアリストテレス主義者から浴びせられたのである。ガリレイが潮汐にたいする月の影響という古くから経験的に知られてりた事実をかたくなに認めようとしなかったのも、まったく同じ理由からである。天体間の重力は魔術的・占星術的思考には馴染みよいものであったのにひきかえ、当時の新しい科学のリーダーにもあるいは旧来の科学の擁護者からも、認め難いものであった。

山本義隆「磁力と重力の発見1古代・中世」6ページ

一方、以下のあたりの記述は私の既存知識との「共用部」といえそうです。

魔術は中世キリスト教社会においては異端として抑圧され地上からは放逐されていたが、地下世界の潮流としてのみ存続してきた魔術が15世紀になって公然と地表に出現したのは、それだけキリスト教会のイデオロギー統制が緩んだ証左であろう。とりわけ教皇庁の置かれていたイタリアは群小国家に分断され、それらの小国家と教皇庁の間の領土と財産をめぐる世俗的な抗争はイタリア社会を長期に渡って荒廃・混乱させ、その間隙をぬって新興の都市市民ーー商人や職人や役人たちーーが確実に力を獲得してきていた。教皇庁の腐敗と堕落、そしてその支配体制の弱体化は、北ヨーロッパでは16世紀に宗教改革を生み出す事になったが、イタリアではそれに1世紀も先んじて人々をして現世的利益の追求へと向かわせる事になり、それがルネサンスの原動力となっていた。おのれを取り巻く社会が急激に変貌を遂げているのを見たイタリアの新興市民葬は、教皇庁を頂点とする教会の支配を支えているカトリシズムの救済信仰、現世厭離をうながす来世信仰になにがしか胡散臭いものを嗅ぎ取ったのである。

山本義隆「磁力と重力の発見2ルネサンス」334ページ

「教皇庁の腐敗と堕落、そしてその支配体制の弱体化」…ここで興味深いのがブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」だけでなくゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」もまた、その発端をアヴィニョン捕囚(1309年~1377年)期の「毎夜の憂さ晴らしのどんちゃん騒ぎ」と、その後の教皇領主化に求めている辺り。根は柔弱な教皇庁が「拳で形をつけようぜ!!」とか言い出したら、それまでの超然主義的抑止力による優位を自ら放棄したも同然。教皇庁によるイタリア統一を指向してそれなりには戦ったといえるチェザーレ・ボルジアでさえ市民軍の編成に手こずり、実質上兵力の供給をフランスに頼っていたくらいですから結果はおして知るべしで、概ねかえって非力を曝し権威失墜に貢献するばかりだったという次第。

そもそもアヴィニョン捕囚の大源流は「欧州中世を終わらせた」フランス国王フランス王フィリップ4世(在位1285年~1314年)の手になるアナーニ事件(1303年)にまで遡る訳で、そう考えるとさらに業が深まります。

そして「教皇庁の置かれていたイタリアは群小国家に分断され、それらの小国家と教皇庁の間の領土と財産をめぐる世俗的な抗争はイタリア社会を長期に渡って荒廃・混乱させ…」…やはり塩野七生「チェザーレ・ボルジア優雅なる冷酷」を思い出させますね。

この人の「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」もまた、私が大きな影響を受けた作品の一つとなります。

しかしながら、こうした遍歴そのものが以下の様な歴史的展開を私の視野外に追いやってきたともいえましょう。

初期ルネサンスの人文主義運動を哲学的な運動に転換させていった契機は、1438年・1439年にフェローラとフィレンツェで開かれた東西キリスト教会議と1453年のコンスタンティノープル陥落ーー東西ローマ帝国の滅亡ーーにともなって、古典文化をよりよく継承していたビザンチンの何人もの学者が数多くのギリシャ古典の写本を携えてイタリアに渡ってきたことだと言われている。こうして修辞学に偏していた初期人文主義とは肌合いの異なる思想的で学問的な運動が誕生した。そしてここにおいて、特にビザンチンの影響を受け神秘主義的な色合いを帯びた新プラトン主義そしてヘルメス思想が語られる様になったのであり、さらには異端の思想として遠ざけられていた魔術思想が公然と論じられる様になっていった。

山本義隆「磁力と重力の発見2ルネサンス」335ページ

さて、どうしよう…途方に暮れたところで以下続報。

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