内なる悲しみを抱える人
ヘッダー記事が悲しくなさそう、って思った方いますか?笑
何故この画像を選んだのかと言うと、
考え事をする時はいつも空を見たり、太陽の光をぼーっと眺めているからです。
いつも空と風景と共に生きているので、将来的に恋人の実家に住み、それらが失われるだろうことを思うと少し憂鬱な気持ちになります。
我が家を残したとて、父の部屋に手を付けずに…ということになるので、現実的では無いのですが。
恋人と二人で暮らすことと言うより、我が家を出て知らない土地に生きることを想定するのが辛い。。。
仮初でいたいのに、私の人生の主軸、我が子の人生の主軸の家を背負えないと言うか。
前振りが長くなりました。
この記事は続きになります。
良ければ、こちらから読んでみてください。
今回のタイトル「内なる悲しみを抱える人」についてお話ししますね。
私は父が人格否定をする家庭で育ったので、
自己否定をする声がずっと聞こえているところがあります。
自分の価値観を肯定できる状況にいれる内は、
その声がいても自分を好きでいられるのですが、
自己肯定感が揺らぐと途端に自己否定の声が顔を現し、ガタガタと崩れる音がします。
メンタルが強いとか弱いとか言われる時代になりましたが、
私は初めは皆(遺伝的要素を考慮したとしても)ほとんど同じ位置にいて、
あくまで人生の積み重ねによって今が決まっていると思うのです。
私も生まれた時からメンタルが弱かった(そもそもメンタルが弱いという言葉が余りに取ってつけたような語弊のある言い方ですね)とか、
今後もずっと弱いとか決まっている訳ではなく、
これまでの家庭環境や勉学においてずっと競走し続けてきたこと等が作用して今の強いが脆い精神が築かれたと思います。
なので、メンタルが強い人間が勝手に「あの人はメンタルが弱い」等と言うのは、本当に文字通り勝手な行いで、そこに想像力や思いやりは存在していないのです。
これは自戒でもあります。
得てして、言われる側はそういう言葉に更に傷つくものだと感じるので。
一つ気付いたことがあって。
愛玩動物や抵抗しない物に安息する人々を見る度に、皆同様に怯えているんだなと思うのです。
拒否や拒絶を恐れていて、確実に力の差がある等の理由で怯えなくていいからこそ心を開ける、というのが人間の根底にあるのだと思うと、
傷つけてきたあの人もこの人も怯えていたんだなって。
なかなか難しいですが、その心持ちを忘れずに生きていければ楽だなと思います。
では、また次回お会いしましょう。
夜灯でした。