最近の記事

名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その6

植物の画家・福田豊四郎 作品リストによると、今回展示されている福田豊四郎の作品で最も初期のものは、大正十二年の『はなびわのかげ』。 弱い日差しのようなアイボリーの背景に、ふわりと緑色の香りをまとったような葉が茂り、その傍らに小さな白い鳥が憩う。 最も晩期のものは昭和四十五年の『紅蓮の座・池心座主』。 トロリとした池の水面を思わせる、濃い青緑の背景に、蓮の花、蓮の葉。花は花芯に、葉は蜜のような雫の露に、小さな蛙が蹲る一対の小品。 どちらも、植物に小さな命が宿る様子。 一見す

    • 名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その5

      福田豊四郎と堀文子の鳥について。 福田豊四郎の猛禽を書いた作品は二点。 『八幡平』『平原』。 『八幡平』の方は、まさにウサギを仕留めた瞬間。 草むらに突きこまれた太い脚の先は見えない。 断末魔の叫びをあげるウサギの頭だけが、葉の間から覗いている。 空気を叩きつけるように翻る羽根は、刀のような鉄の色で、見えない爪の鋭さと残酷さを暗示しているみたい。 なのに、画面の下三分の一は、日差しのように明るい黄色、拍手するような葉が、半分に届けとばかりにはじけていて、空は明るい青、ひたす

      • 名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その4

        一か月以上開いてしまいましたが、ようやく後期展示を見てまいりましたので、続きを。 福田豊四郎『山の秋』 人間の胴ほどもある大きな黄色い葉。大胆に広がって重なり合い、画面を支配しているかのような描写は、まるで秋に色づいた葉というよりも、黄ばんだ秋の日差しそのものであるかのよう。 秋の日差しは照り付ける日光というよりも、静かに流れ込むように空気に満ちて、何もかも黄色く赤く色づけていくものだから、それが形を持てば、たしかにこのようになるでしょう。 そんな秋の陽に黄色く覆われた上

        • 三甲美術館『女流画家展』と常設展示・その2

          上村松園『春駒』 名都美術館にも上村松園の春駒図はありますが、こちらは扇面。 春駒は、新春の門付からお座敷の出し物にもなった芸。縁起物の画題なので、初釜の茶室の掛物などには、さぞ映えることでしょう。 ここでは、洋式の展示室をちょうど出るあたり、白い柱に額装されてかけられていますが、それでも扇面という形から、初春の穏やかな風が薫るかのよう。 女流画家展の〆ともいえる場所にありましたから、たっぷりと個性を味わった後に添えられる、ゆかしい上村松園の小品は、まるで、揺蕩う残り香に見

        名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その6

          三甲美術館『女流画家展』と常設展示・その1

          先週、岐阜・柳ケ瀬画廊の『熊谷守一展』を見に行ってきました。 その際、画廊の方が「とても良い美術館がありますよ」とお話してくださったのが、三甲美術館でした。 岐阜現代美術館に篠田桃紅を見に行く予定だったのですが、知らなかった美術館を教えていただいたことが嬉しくて、予定変更、さっそくおうかがいしました。 金華山と百々ヶ峰の間、長良川を見下ろす山腹に、緑に囲まれてある、落ち着いた雰囲気の建物で、対応して下さった係の方も企業の受付のようで、美術館というより、何かの式場といった雰囲

          三甲美術館『女流画家展』と常設展示・その1

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その3

          そろそろ展示替えでしょうか。 こんなペースで間に合うのかしら。 堀文子『紫の雨』 (この絵の記事、別垢に移転しました) 福田豊四郎『六月の森』 森の緑は、梅雨となれば、湿気をたっぷりと含んで、 光まで吸い込むように濃くなって、それを滴らせるように葉先をたらします。 だけど、ここに描かれた森はまだ明るいので、まだ梅雨は来ていないのでしょう。 でも、こんなに視界がぼやけて緑色に染まっているのだから、この森の中は、たっぷりと湿気を含んで、まとわりつくように暖かい空気に満た

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その3

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その2

          前回の続き。 堀文子『廃墟』 「震災を経験し、実際に目にした廃墟にて、何事もなかったかのように歩むカマキリに深い印象を受けた」旨の解説を聞いて、いささか恐ろしい想像をしてしまいました。 さわやかな色調に、白ばむほどに明るい画面なのに、生命がやたら遠くあるように見えます。 茶色がかった白く四角い建物は、棺のようでもあり。 太くうねる茎に、大振りの盃のような真っ白の花は、骨のようでもあり。 山ブドウは、たっぷり果汁を含んだように瑞々しく実っているのに、二羽のカラスはそれには目

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その2

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その1

          去る四月十四日、学芸員ギャラリートークを拝聴しつつ観覧してまいりました。 感じたことなど、思い出しつつ書いていきたいと思います。 堀文子『山』 盛り上がった山塊は、黄泉の国に至るまで根を張っており、自分の足元の地下にまでその裾が広がっている気がして、その奈落の底から伸びてきたような樹は、生臭いほどに赤く、まるで脈打つ血管のよう。 そんな印象から、片岡球子作品を思い出されました。 干支が一回り違うから同世代とは言えないでしょうが、同じ女子美術大学の出身であるし、どこかで交わ

          名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その1

          悪から遠ざけるもの

          介護現場での虐待が報道されることがあります。 自分も、虐待をしそうになったことがあるので、それについてここに書きます。 ずいぶん前、介護の仕事をはじめて間もない頃のこと。 一通りの手順は覚えたものの、段取り良くすすめることなど夢のまた夢、むしろ慣れない所作に、体の痛みや精神的なストレスの方が勝る有様で、はたして仕事としてやっていけるのかどうか、それすら考えられませんでした。 その日も、私の仕事は遅れていました。また、疲れてもいました。 憂鬱な気持ちのまま、寝たきりの利用者

          悪から遠ざけるもの

          イースター(復活節)に考えたこと

          洗礼を受けたころ、 ミシェル・クオスト『神に聴くすべを知っているなら』 という本をいただきました。 詩集というべきか、祈りの本というべきか。 著者の祈りや、切実な訴えがつづられ、その中には 著者の言葉にイエズスが応える、という型式のものがありました。 今回、思うところあって、この一文を記すに際し、 自分もその型式に倣います。 私は以下のように祈った。 イエズス、 自分が働いているのは介護老人保健施設です。 心身に不具合のある老人が、病院からは退院したものの、 まだ家庭には

          イースター(復活節)に考えたこと