三甲美術館『女流画家展』と常設展示・その1
先週、岐阜・柳ケ瀬画廊の『熊谷守一展』を見に行ってきました。
その際、画廊の方が「とても良い美術館がありますよ」とお話してくださったのが、三甲美術館でした。
岐阜現代美術館に篠田桃紅を見に行く予定だったのですが、知らなかった美術館を教えていただいたことが嬉しくて、予定変更、さっそくおうかがいしました。
金華山と百々ヶ峰の間、長良川を見下ろす山腹に、緑に囲まれてある、落ち着いた雰囲気の建物で、対応して下さった係の方も企業の受付のようで、美術館というより、何かの式場といった雰囲気。
もともと株式会社三甲の研修や外交のための施設だったそうで、なるほど確かに、展示作品を拝見している時も、美術館に来たというより、個人のお宅にコレクションを見せていただきに来た、そんな気分でおりました。
マリー・ローランサン『音楽会にて』
入場すると、高い天井から、凝った意匠の照明が下がる階段室のあるホールに入ります。
そこに、ごく当たり前のように掛かっているローランサン。
そういえば、うちも以前、玄関を入った正面にポスターを張っていたっけ。
ローランサンやカシニョール、ヒロ・ヤマガタとか。
ポスター・複製画・ジグソーパズル、一昔前は貼ってる人多かった。
手を広げることもできない、数歩で壁にぶつかる4LDK分譲マンションの玄関でしたが。
コッチは、ちょっと横を見たら、いやなんでこんな地味な置き方してるの、と声をあげそうになる場所にブールデルのブロンズがある、向こうを見ればグランドピアノなんてホール。
深い赤のビロードと、マホガニーのブラウンに、しっとりと薄暗い印象のホールに、マリー・ローランサンの白い画面は、窓のように明るくて。
こういうのがやりたかったのかなあ、と今更のように自覚する。
そんな思い出に圧倒されて、作品の鑑賞は上手くできませんでした。
と言っても、展示されてるのはみんなこちらの所蔵品。
訪れれば何度でも再会できます。
次に来た時、ローランサンはどんな表情で私をむかえてくれるのでしょうか。
小倉遊亀『花と瓶』『春花』
小倉遊亀の形のとり方は、デフォルメと言っていいのかどうか。
写真のように正確に形を写してはいないけれど、人の眼では確かにこういう形に見えているよなあ、という説得力。
瓶とて、普通には左右対称と思われているが、ロクロで作った陶は、実は全て螺旋ですし。
花は花で、絵の中なのに揺れているようで、ここまで来る間に、あちらこちらで見かけた花の面影が重なるような。
片岡球子『梅花』『富士』
背景は、普通なら暑苦しいほどの強烈なオレンジ色なのに、なぜか熱は感じず、むしろさわやかなほど。
梅の幹は黒々と影になり、その幹にかかった梅の花も青白い。なのに、枝に出た花弁は背景に溶けるようにオレンジに染まっている。
このオレンジ色は光なのでしょう。
影になった花弁の青白さが空気の涼しさを、枝先で橙に染まった花弁が、日光の明るさを示しているのかと思います。
片岡球子の富士山は、赤かったり黄色かったりする印象なんだけど、今回、展示されている富士は青かった。
盛り上がった大波のように、今にもこちらに覆いかぶさってきそう。
背景が屏風絵のように金色の空。手前は巨大な牡丹に野菊と、ふもとを埋め尽くし、咲き誇る花も、同じように、さらにせりあがってくるようで。
華やかさという言葉には収まりきらない存在感。
この画家が、富士を描くときは、いつも生命力を爆発させているかのようです。
描かれた山や花の下に、深い大地と、その奥底のマグマの存在を感じさせるように。
堀文子『白薔薇』『花といんげん』『ヒマラヤの青罌粟』
堀文子と言えば花、とは言いますが、花と一言で言っても、卓上の白薔薇から、ヒマラヤのブルーポピーまで、人と同じくらい多様で奥深いもの。
それにしても最近、本当に堀文子が好きになってきたみたい。
見る機会が多くて、たくさん見たから好きになったのか、好きだから機会を集めて見に行っているのか、もう区別がつかないのですが、もっともっと見たいし、あらためて勉強もしたい。
名都美術館の展示替えもそろそろなので、堀文子についてはまた改めて書こうと思っています。
森田りえ子『桜月夜』『牡丹(富貴花)』『水辺』
近代的な日本画で、女性画家で、繊細な形の描写、華やかだけど静かな色彩、そういったイメージをそのまま形にしたような森田りえ子の作品。
でありながら、桜のつぼみは色濃く、薄い色の花弁の向こうの枝は黒々としていたり、おぼろ月も色彩は淡いのに、なぜか存在感はしっかりとある、そういった、一見気づきにくいが、実は芯が強い、そんな描写であるかと思います。
それ以上は、今回初めて知った画家なので、さて、まだよくわからない。
もう少し追ってみたい画家です。