名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その6
植物の画家・福田豊四郎
作品リストによると、今回展示されている福田豊四郎の作品で最も初期のものは、大正十二年の『はなびわのかげ』。
弱い日差しのようなアイボリーの背景に、ふわりと緑色の香りをまとったような葉が茂り、その傍らに小さな白い鳥が憩う。
最も晩期のものは昭和四十五年の『紅蓮の座・池心座主』。
トロリとした池の水面を思わせる、濃い青緑の背景に、蓮の花、蓮の葉。花は花芯に、葉は蜜のような雫の露に、小さな蛙が蹲る一対の小品。
どちらも、植物に小さな命が宿る様子。
一見すると、堀文子の作品とも見違えるような、穏やかな雰囲気の優しい作品でした。
『はなびわのかげ』は『早春(鶏小屋)』と同じ時期で、確かにぼんやりとにじむ描写が共通している。
湿度のようでもあり、粉っぽくカサカサと粒立っているようでもあり。それはこの後の、雪国を描いた作品たちに、うっすらと被る、粉雪のような質感に繋がっていくのだろうか。
雪国の風景を主体にした作品とは別に、生活する人の様子を描く作品では、植物はぼやけた部分がなくなり、細かく写実的に描かれるのは既に描きました。植物や小動物がそうなるのに、人物の目はモジリアニを思わせる巴旦杏型に、衣服はマチスのように単純化されるのだけれど、『五月山湯』に至っては、これから入浴しようというのに、湯舟も描かれず、ただ青い長方形があるばかり。だけど、その水面は微妙に色合いが波打つように変化していて、掃かれたような白が湯気らしく見えて、一見で湯とわかる、後から「なぜ単なる長方形なのに湯舟にみえるんだろう?」と不思議になるレベル。
単純化されてはいるけれど、そこに至るまでには、草木の写実描写に匹敵する観察があるのでしょう。
季節の折々の風景を歌のように詠み、子供たちの素敵な一瞬を切り取った『田園抄 村童12ヵ月』という作品も、だからこそ可能になったもの。
その後、山や波や樹氷など、大きなものはドンドン造形の面白さのほうに変化していくのだけれど、一方で植物や小動物の描写は、形の精緻で写実的な描画によってリアリティを上げていく。
ただ、描画の写実性をより表現するために、陰影が廃され、背景の色使いなどに工夫が至ると、『山菜』のような作品が生まれてくるのでしょう。
影がないことと、全ての細部がくっきりと描きこまれているため、画面は平面的ですが、画面の構成がしっかりしているせいか、背景の色味を抑えているせいか、平面的でありながら、奥行きがあるかのように感じてしまいます。
そんな、福田豊四郎の小さな命へのまなざしの行きついた先が、『紅蓮の座・池心座主』だったのかと思います。
そして、花の画家・堀文子
『離山凍る』は、『山』や『連峯』に通ずる風景画ですが、
山を覆う木々の有様が、より細かく描かれています。
山の斜面、ある面では木々が湿気を吐くように煙っていて、
ある面ではむき出しの梢が産毛のように毛羽立ち、
またある面では葉の色が濃かったり、薄かったりと、
一本々々の樹の、その場所での生命の様子を描くことで、
陽の当たり具合や、高低差の違いを表現しています。
『山』や『連峯』では、山塊や大空や大地に向けられていた眼差しが、一本々々の樹の生きざまに注がれているようです。
『大社町海浜の浜昼顔とハマエンドウ』
『猫』『仔犬』『芥子』『名もなき草達』
『どうだんつつじと雪の下』
堀文子が草花を描く一連の作品は、
福田豊四郎の命へのまなざしを受け継いだようです。
雪国を故郷とした福田豊四郎の描写では、光は暑い雲を通してかそけく降るようで、どれほど濃い緑の葉、白い花びらを描いても、うっすらと白い影が覆っているようでしたけれど、堀文子の光は、優しく柔らかいけれど、何にも遮られることがなく降りそそいでいるような、素直さを感じます。
六月二十五日から、次の展示『旅する堀文子ースケッチに刻まれた人生』が始まります。
今回の展覧会で、堀文子の作品について色々と思う所がありました。次回の展示で、よりそれを掘り下げられればと思います。