楠田純子評 カレン・ラッセル『オレンジ色の世界』(松田青子訳、河出書房新社)
評者◆楠田純子
何もかもが不確かな世界で、ありったけの自分を生きる――独自の世界を紡ぎ続けている作家の三冊目の短篇集
オレンジ色の世界
カレン・ラッセル 著、松田青子 訳
河出書房新社
No.3603 ・ 2023年08月12日
■「悪魔に授乳する新米ママ、〈湿地遺体〉の少女に恋した少年、奇妙な木に寄生された娘、水没都市フロリダに棲むゴンドラ乗りの姉妹……。」帯を見ると、どうやら不思議な世界に引きずり込まれるらしい。
カレン・ラッセルは二三歳で〈ニューヨーカー〉にデビューし、以来、独自の世界を紡ぎ続けている。本作は三冊目の短篇集だ。
帯に書かれた紹介を胸に一作目「探鉱者」を読み始めると、少し拍子抜けするかもしれない。舞台はアメリカだし、時代は少し古そうだけれど、なんだ、私がこの時代のアメリカの事情や歴史に疎いからピンとこないだけで、異世界なんかじゃないじゃないか、と。だが、読み進めるうちに妙な気持ちに包まれる。なんだか、違う。単に時代考証という意味で知識が欠けているからというだけじゃなく、何かがおかしい。そんな「違和感」をどの作品にも感じる。
このように著者が描き出す世界は、まったくの異世界に舞台を置いているわけではない。いずれも地球上。国も特定できることが多い。なんなら、地域も。でも、わからない。実在する場所なのか、時代なのか、出来事なのか……。読み始めた当初は、暗闇を、いや、現実世界の設定を借りているので薄暗がりを手探りで進むような気持になる。この世界は、どんな世界なのだろうか。読者としては若干の不安を感じつつも、想像の翼を大いにはばたかせればよい。
そうして手探りで進むうちに、ある時ふと、視界が開ける。そう、現実にあるような、ないような不思議な世界で展開する物語だが、そこに描かれるのは、まぎれもない、私たちと同じ人間なのだ。厳密に言うと、「ボヴァリー夫人のグレイハウンド」は例外で、ギュスターヴ・フローベールによるかの有名な小説『ボヴァリー夫人』に登場するグレイハウンドが主人公だが、いずれにしても、この世を生きる、心を持つ命という点で違いはない。
表題作の「オレンジ色の世界」には、「『オレンジ色の世界』と、〈新米パパママの教育係〉は言った。『それがほとんどの人が生きている世界です』」とある(二八八頁)。危険と隣り合わせな「赤色の世界」と、安全な理想郷である「緑色の世界」。現実はその間、「オレンジ色の世界」なのだと。言われてみれば確かにそうだ。
私たちは誰もが、不確かな「オレンジ色の世界」で生きている。何が待ち受けているのか、どんな選択をすれば少しでも「緑色の世界」に近づけるのかわからないまま手探りで進まざるを得ない。立ち止まりたくても許されないことも多々ある。
不景気に襲われつつある西部で若い娘としてその日暮らしをしなくても。駆け落ちの末に訪れた国立公園で、この時期にしか見られない自然現象を見物するはずが、思いがけない出来事に見舞われるなどという経験をしなくても。ひょんなことから発見した、古代に生きた少女の遺体に恋をしてしまわなくても。不安定な結婚生活を営む飼い主から離れて一頭で生き抜くために奮闘しなくても。心に傷を負いながら、引退したはずの竜巻育成に今一度手を出さなくても。身に覚えのない中傷から、死後医としての地位を失うだけでなく、愛する家族まで噂に汚染されそうになるという経験をしなくても。水没都市でゴンドラ乗りとして生計を立てなくても。無事に我が子を出産できるか不安に苛まれた末に悪魔と契約しなくても。
私たちは先が見えるようで見えない日々を生きている。時には思い通り、または予想を超えた展開を迎えることもある。逆に、最善を尽くしたはずなのに、思い通りにいかないばかりか、到底納得できない展開を迎えることもある。それでも、その時々の自分のありったけで選択を重ねていくしかない。この、普遍的な現実を、諦めとともに受け入れるのではなく、力強く肯定できる。本書はそんな一冊なのだ。
ラッセルの他の短編集の翻訳も担当する松田青子による「訳者あとがき」も必読だ。本書の作品についてだけでなく、ラッセルの作品世界について、視点について、鮮やかに伝えてくれる。
ラッセルの著作はこれが初めて、という読者も、この作家の世界をもっと見てみたいと思うこと間違いなしだ。
(翻訳者/ライター)
「図書新聞」No.3603・ 2023年8月12日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。
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