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三角明子評 アレクサンダル・ヘモン『ブルーノの問題』(柴田元幸/秋草俊一郎訳、柴田元幸/秋草俊一郎訳、書肆侃侃房)

評者◆三角明子
小説とは、なんと自由でありうるものなのか――文学に関心を寄せる者にとって、まさに待望の訳書
ブルーノの問題
アレクサンダル・ヘモン 著、柴田元幸/秋草俊一郎 訳
書肆侃侃房
No.3626 ・ 2024年02月03日

■四方を敵に囲まれ封鎖された故郷からの手紙が、さまざまな人の手を借り、ときには何か月もかけて届く。郵便受けに入った手紙を見て震えてしまうのは、差出人である旧友アイダがすでに死んでいるかもしれないからだ。〈生がつねに死よりも遅いという事実〉に恐怖を抱きながら、シカゴに住む語り手は〈あたかも彼女が生きているかのように〉手紙を読む。そして、なかば秘密のルートを使って返事を送る。途方もない時間だけでなく、すでに死がアイダと自分を隔てているのかもしれないと感じながら。
 この短篇「コイン」ほか七篇を収めた『ブルーノの問題』(柴田元幸・秋草俊一郎訳、書肆侃侃房)は、ボスニア生まれでシカゴ在住の作家アレクサンダル・ヘモンの第一作品集である(原著は二〇〇〇年刊)。翻訳刊行においては、長篇小説『ノーホエア・マン』、短篇集『愛と障害』、エッセイ集『私の人生の本』が先行したが、本書の訳者のひとり柴田元幸が単発的に訳した「島」や「アコーディオン」を読み、この第一作品集の刊行を待っていた読者も多いのではないか。
 一九九二年四月、文化交流プログラムの招聘をうけてシカゴに滞在していたヘモンは、故郷サラエヴォがセルビア人勢力に包囲されたことを知る。帰国をあきらめて合衆国に留まり、日々の糧を稼ぎながら、すさまじい勢いで英語での文章修業を積み、九五年、英語で書いた「島」を世に送りだす。英語で作品を発表することにより、世界に広がる同胞に届けることが可能になった。また同時に、より多くの読者を獲得し、今では英語圏を代表する作家のひとりと見なされるに至った。〈物書き(ライター)〉と呼ばれることを好むヘモンの活動は多岐にわたる。映画『マトリックス・レザレクションズ』の共同脚本もその一つだ。さらに、音楽活動も行っている。
 『ブルーノの問題』に収められた物語の多くは、作者であるヘモンの実人生から出発しているように見える。冒頭で引用した「コイン」の語り手は、テレビニュースで、包囲された故郷サラエヴォの様子を見ている。中編「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」の主人公プロネクは、内戦の勃発により、招聘先の合衆国から帰国できなくなった。語り手が九歳の夏の日々を回想する「島」、ヘモン一族のルーツを熱狂的に探る親族たちを描く「心地よい言葉のやりとり」などにも、ヘモンの伝記的事実と共通する要素がある。
 だが、ヘモンが書いているのは私小説ではない。秋草俊一郎があとがきで指摘するように、小説での記述は〈重なりあいながらも少しずつずらされて〉おり、ヘモンの人生から題材をとったとしても、どこかを起点に展開し離れていく、別の小説世界となる。そのようなヘモンの作品群を、『愛と困難』の訳者岩本正恵は「〈反〉自伝的」と呼んだ。
 ヘモンは「事実」に過度に縛られることはない。また、その意識は、自身や家族のルーツや体験を基にした物語に留まらない。第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォ事件から材をとった「アコーディオン」では、語り手である作家が、大胆にも、本文中で(歴史的には)嘘を書いていることを明言する。馬車に乗った大公夫妻が暗殺者の銃弾を受けるさまを描きながら、〈大公は実際には自動車に乗っていて死んだ〉というのだ。ヘモンは、一冊一冊の本とは、作者と読者が言語を介して形成する〈かりそめの共同体〉だと言ったことがあるが(『早稲田文学』二〇一四年冬号)、小説とは、なんと自由でありうるものなのか。
 「事実」について疑義を投げかけるさまざまな仕掛け、そして、ウクライナやガザの名を挙げるまでもない、色あせない今日性。文学に関心を寄せる者にとって、まさに待望の訳書である。
(翻訳者、大学教員)

「図書新聞」No.3626・ 2024年02月03日に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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