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柳澤宏美評 クォン・ナミ『翻訳に生きて死んで――日本文学翻訳家の波乱万丈ライフ』(藤田麗子訳、平凡社)

翻訳者の悲喜こもごも――九〇年代から翻訳を始めた著者が日本文学の翻訳者になったいきさつと二十年の間で積み重ねてきた経験を語る

柳澤宏美評
翻訳に生きて死んで――日本文学翻訳家の波乱万丈ライフ
クォン・ナミ 著、藤田麗子 訳
平凡社

■子供のころ、外国のファンタジー小説を読んでいた私に「それは翻訳した人の文章になってしまったもので、書いた人の文章ではないから読めない」と言う人がいた。今考えるとその人も海外文学を読まないわけではなかったし、カタカナの登場人物の名前に慣れていないだけじゃないか、とも思うが、そう言われた当時の私は少し納得した。なるほどある言語を別の言語に置き換えるということは難しく、翻訳というのは文学のひとつのジャンルのようなものだ。
 本書は、恩田陸、村上春樹、天童荒太といった日本のベストセラーの翻訳を韓国で手がけ、また新聞や雑誌にコラムを執筆するクォン・ナミによるエッセイである。二〇一一年に最初に刊行されたものを改訂して出版された二〇二一年版の翻訳だ。九〇年代から翻訳を始めた著者が日本文学の翻訳者になったいきさつと二十年の間で積み重ねてきた経験を語る。仕事がなく時間のある時に始めた翻訳から出版社の依頼が来るようになったこと、初めて自分の名前で本が出版された時のこと、自分で本の企画を持ち込んだ時のこと、翻訳した本がベストセラーになった時のことなどが家族の反応や私生活の状況とともにユーモラスに書かれているのがおもしろい。また翻訳学校、翻訳料の交渉、編集者・出版社との関係、レジュメと呼ばれる翻訳の前段階のまとめについてなど、実際の作業についても具体的なエピソードが書かれている。ひとりの翻訳家の仕事が軌道に乗るまでの苦労話だけでなく、翻訳家になろうとしている人やすでに翻訳を仕事にしている人にとっても韓国の翻訳事情を知れる絶好のエッセイである。実際に本書を読んで翻訳家になった人もいるようだ。
 特に第三章「翻訳の実際」では、翻訳のノウハウを公開してくれている。方言はどうやって訳すか、登場人物の口調はどうするか、そして翻訳の経験が一度でもある人なら誰でも気になった問いについても丁寧に書いてくれている。原文にどこまで忠実に訳せばいいのか、という問題である。
 翻訳は単にひとつの言語から別の言語に言葉を置き換えるだけを指すのではない。どんなにふたつの言語を自在に操り、読み書きできる人でも良い翻訳ができるとは限らない。言語というのは情報を伝えるだけでなく、文化や思考方法にまで密接に関係しているからだ。翻訳となると原文を読んでいない人にも伝わるように書かなければならない。外国語から日本語に訳す時も、「外国語だからこう書くのであって、日本語ではこうは言わない」ということが多々ある。主語を訳すときでも「彼」「彼女」のままがいいのか、名前にするべきか、あるいは「母」「友人」などの別の言葉にするべきか、いっそのこと省略するべきか、とさまざまな選択肢が頭に浮かんでしまう。原文をよく読み、何が書かれているのかを把握してから、それでも原文の雰囲気をなるべく変えないような最適な訳を見つけなければならないのだ。
 本書ではこの原文にどこまで忠実に訳すかという問題に「訳者は原文の雰囲気を知っているだけに、どの単語も助詞もすべて必要な部品のように思えてなかなか捨てられない。しかし、絶対に必要だと思っていた部品が、実は部品を入れておくビニール袋に過ぎなかった、ということがある」と比喩を用いて回答している。ビニール袋が不要なら取り外さなければならないし、別の袋が必要なら持ってこなくてはいけない。どこがビニール袋でどこが必要な部品なのかを示すために、本書では実際の文章を抜粋して、日本語の原文、原文を解釈した韓国語と日本語、そして最終的に訳された韓国語と日本語、と三種類の日本語、二種類の韓国語を載せ。具体例を挙げている。筆者は、韓国語は読めないので、日本語のみの比較しかできないが、いかに読みやすい訳文にするかということに腐心しているのが伝わる。(この部分を日本語に訳す時の悩みは「あとがき」に書かれている)。それは一朝一夕でできることではなく、三百冊以上の翻訳を世に出した著者でさえ、その対処法は、自分の翻訳文を何度も読み返して修正していくことだと語る。
 さて当たり前だが、日本文学翻訳者である著者は日本語の本をたくさん読む読書家でもある。本書にはたくさんの小説、作家が登場し、そのコメントの要所要所からは多くの本に向き合ったからこそ出てくる情熱も感じることができる。翻訳の世界を知ると同時に近年の日本文学を知ることのできる本だ。
 柳澤宏美(学芸員)

「図書新聞」No.3644・ 2024年6月22日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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