眞鍋惠子評 ウラジーミル・ソローキン『吹雪』(松下隆志訳、河出書房新社)
評者◆眞鍋惠子
吹雪の向こうに何が待つのか?――現代文学のモンスターが描く近未来ロシアのロードノベル
吹雪
ウラジーミル・ソローキン 著、松下隆志 訳
河出書房新社
No.3599 ・ 2023年07月15日
■ロシアのドルゴエという村で、黒い病が蔓延する。感染した人間をゾンビに変える恐ろしい病気だ。四十二歳の郡医者プラトン・イリイチ・ガーリンはその日のうちにワクチンを届けてまだ「咬まれていない」村人を救うため、吹雪の中を出発する。パン運びのセキコフの運転する”車”に乗って。
ウラジーミル・ソローキンの二〇一〇年発表の中編小説『吹雪』を読み始めると、読者はガーリンとセキコフと共に吹雪の荒野を進むことになる。雪と風で視界が阻まれ、たどるべき道も見えない。謎の物体にぶつかって”車”の”滑り木”が割れる。”車”が急斜面を何度も休憩しながら上がるうちに日が暮れてくる。暗い中橋を渡ると修繕した”滑り木”がまた折れる……。何度克服しても次から次へと持ち上がる困難。果たしてガーリンとセキコフは、私たちは、ドルゴエにたどりつけるか。
「現代文学のモンスター」の異名を取るソローキンは、昨年にわかに注目を集めた。ロシアのウクライナ侵攻後すぐに「プーチン 過去からのモンスター」と題するエッセイを発表。プーチンというモンスターが生まれた経緯をロシアの「権力ピラミッド」を元に説明した。同時に、二〇〇六年の長編SF小説『親衛隊士の日』が関心を集める。絶対的権力を握る専制君主が支配する帝国化したロシアを描き、発表当時は諷刺の効いたディストピア小説だと言われたが、今、現実のロシアを予言した物語となったからだ。
アンダーグラウンド作家として名を馳せたソローキンの作品は、執筆当初は発禁の対象であったがソ連解体後に評価され、ロシアの文学賞を数多く受賞している(その後プーチン政権下で言論弾圧が激しくなると、悪書追放運動の対象になった)。モンスターと称されるだけあってその作風は実験的でグロテスクな面があるが、本書は「彼の作品の中でもっとも正統的な文学作品と言えるかもしれない」(訳者あとがき)。トルストイなどのロシア古典文学のトピックが組み込まれ、普通のリアリズム小説に見える。しかし描かれる世界は独特だ。セキコフの運転する”車”のタイヤにあたるベルトを動かすのは体長三十センチほどの五十頭の小さな馬である。馬たちがボンネットの中でリブ状の駆動ベルトを蹄でこするとベルトが回り”車”が動く仕組みだ。かたや四階建ての建物ほどの大きな馬も存在する。人間の大きさもいろいろで、”車”の修理に立ち寄った粉屋の主人は背丈が数十センチの小人だし、”車”が突っ込んで動けなくなるのは道端で死んだ身の丈六メートルの巨人の鼻だ。ラジオは”見る”もので、ホログラムを映し出す。”ビタミンダー”と呼ばれる麻薬密売組織が扱うのは硬くて透明なピラミッド型の麻薬。古めかしいのか新技術なのかよく分からない小道具が散らばるこの世界は、未来のロシアらしい。
メインキャラクターのふたりにも不思議な魅力がある。病から人々を救うため悪天候を押してワクチンを運ぶ使命感の強い医師ガーリン。しかし泊めてもらった粉屋の妻とベッドを共にし、出会った”ビタミンダー”の新作の麻薬を試してみる。自分は知識人であると自負し、セキコフを「無目的で何の志もない男、だらしないほどのろま」だと見下して思い通りにならないと殴りつける。矛盾を抱え、人間くさい人物だ。一方「善良で、悪意のない表情を浮か」べるセキコフは、鳥を思わせる微笑みを絶やさず全てに満足しているような顔をしている。吹雪でも出発するとガーリンが無茶を言っても、嫌な顔一つせず黙々と”車”を走らせる。小さな馬たちをひどくかわいがる。迷信深いが穏やかで素直な男なのだ。
このふたりが、終わりの見えない吹雪の中を進む。道を見失い、何度も何度も窪地にはまり、寒さに凍え眠気と戦う。「びゅうびゅう唸る敵対的な周囲の白い空間を、一刻も早く乗り越えたいと全身全霊で願った」。「この雪の無限から、彼を片時も離そうとしないこの寒さから出ていきたくてたまらなかった」。この出口の見つからない迷路を行くような旅は、ロシアの人々の息苦しさを象徴するようにも思える。世界で最初の社会主義国となって百年あまり。ソ連崩壊後も改善しない経済状況がモンスターのつけいる隙を与え、ついに大規模な戦争を始めてしまった。自由がなく統制が厳しい中で思うように動けない。出口がいつまでも見つからない。拭っても拭っても吹きつける雪片に息をすることも前の景色を見ることもままならないガーリンたちの道行きから、そんな窒息感が伝わる。折も折、ウクライナ侵攻でロシア軍を支えていた民間軍事会社「ワグネル」の武装反乱失敗のニュースが飛び込んできた。この事件も、この物語で吹雪の中に消えたふたりの足跡なのだろうか。
ついにガーリンとセキコフは何とか目的地にたどり着き、ワクチンを村人に接種できるのか。雪を抜けて最後までふたりと共に旅を続けたら、そこにはどんな景色が見えるだろう。
(翻訳者/ライター)
「図書新聞」No.3599・ 2023年07月15日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。