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世界があることへ驚いているか?〜木田元『反哲学入門』を読んで〜

赤ん坊はたまにボーとしている。

そのボーっとというのは、何も考えていないわけではない。

ただただ、

ひたすらに「世界がある」ことへの驚嘆している表情だ。

これがわれわれが失ってしまった「自然的思考」というものである。

では、「自然的思考」とは何か?

木田元『反哲学入門』の議論を軸に考えてみよう。
(反哲学入門 (新潮文庫) 2010-05-28)
それを説明する前に、まず「哲学」とは何かを理解する必要がある。

哲学とは、
「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういう在り方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいい。

いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられない。

自分が自然のなかにすっぽり包み込まれて生きていると信じ切っていた日本人にはそんな問いは立てられないし、立てる必要もなかった。

西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれた。

そうした哲学の見方からすると、自然は超自然的原理(イデア、純粋形相、神、理性、精神など)によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然的原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
(著者は哲学は「自然に生きたり考えたりすること」を否定するものだとし、日本に哲学がなかったことを恥じる必要などない、日本人のものの考え方のほうがずっと自然だという)

ニーチェは、彼の時代のヨーロッパ文化がいきづまりにきていると見て、その原因をさぐった。彼はその原因が、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方にあることを見抜く。

超自然的原理を設定して、それを参照にして自然を見るような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば、「自然」に包まれ生き、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでもよさそうだ。著者が「反哲学」と呼んでいるのはそうした「自然的思考」のことなのだ。

「反哲学」或いは「自然的思考」は、ソクラテス以前に見出されたとされるが、近代の哲学者でも、ライプニッツなどは「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」と問いかけ、<存在する>というのはどういうことなのかを問題にしているし、20世紀のウィトゲンシュタインでさえ「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」という。ハイデガーはもっとはっきりと「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」と行っている。

「生きる意味は何なのか」「どう生きればいいのか」「よりよい社会とは何か」などの問題も全てこの上に成り立っている。そもそもわれわれが被投されているこの「世界」があることが驚きなのである。

科学技術の発展により、自然をメタ的に完全に解明しようとする人類は躍起になっているが、赤ん坊のように素直に「自然」と向き合うことが自然なのではないだろうか。

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