快楽カプセルは悪か?(『世界史の構造的理解』1/3)
長沼 伸一郎『世界史の構造的理解 現代の「見えない皇帝」と日本の武器』を読んだ。
世界史を独自の構造的な視点で捉え、日本がこれから進むべき道を検討している。ここ数年の中でも、最も読み応えのある本であった。まだ消化できてないところが多いが、印象に残り、より深めていきたい3箇所をコメントとともにまとめておく。
今日はまず1つ。
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著者によると、今のグローバル資本主義は、GAFAなどの代表される「抽象的な帝国」により支配されており、その行き着く先は、快楽カプセルに入れられた生活だという。
快楽カプセルに入った人間は、生物的には点滴のようなもので栄養補給され、排泄なども自動的に行い、脳内にはVRのようなもので、幸せな生活をリアリティをもって体験できる。そこで一生を終えるのだ。
ただこの現代の抽象的な帝国は、もしそれが将来の世界を支配したとしても、必ずしも「鉄条網で囲まれた強制収容所が世界中につくられる」というかたちにはならない。むしろ表面的な人道性という点では、過去のどんな文明に比べても優等生となるだろう。しかしその代わりに、先ほど述べたコラプサーと、「快楽カプセル」のディストピアが控えているのである。長沼 伸一郎. 世界史の構造的理解 現代の「見えない皇帝」と日本の武器 (Japanese Edition) (pp.122-123). Kindle 版.
著者によると、この快楽カプセルというディストピアが実質的な世界史の終焉になるというが、そこに1つ疑問を持った。
本当に快楽カプセルはディストピアであり、否定されるものなのだろうか?
たしかに、倫理的に、というか人道的に、このような快楽カプセルには漠然とした嫌悪感を抱いてしまう。
ただ、現代の社会であらゆるニーズが捉えられて、経済的な実現が挑戦され、満たされ、それが行き着く先には、カプセル状態になるのは明らかだ。
いまニーズがどんどん解決されるのはいいが、それが行き過ぎるとだめになる?
1つ簡単な否定の方法がある。
それは、そのカプセルのシステムが壊れてしまったらどうするのか?
ということだ。
生まれてからいきなり、生物としてリアルな世界で生きることをやめて、カプセルに入れば、意識体験としての世界は充実する。しかし、いざそのシステムが壊れて、リアルな世界に戻されれば、そこで生きる術を身に着けていない人間は、死ぬ。
他の否定方法はあるか?
これを否定できる人はどういう人か?
今このようなカプセル社会を検討する時点で、よい人生の「想い出」が少しでも会った人は、リアル世界で、自分の力でそれを再現したいと思うだろう。
一方で、それがなかった人は、このような無条件で幸福になれる(リアリティを味わえる)世界を選択するのではないか?
そして、この個人主義で激化する競争社会において、後者の人数がますます増えているのではないか。