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吾輩は猫である(夏目漱石著)
作品のタイトルは重要であって、タイトルによって作品の印象がガラリと変わってしまう。で、この作品は「吾輩は猫である」という人を食ったようなタイトルによってユーモア小説のように思われているんだけど、他のタイトルであることも充分ありえただろう。例えば「名前のない猫」というタイトルなら、ちょっと哀れっぽいイメージになる。
この小説の冒頭では猫に名前がないこと、親から引き離されたこと、非常に空腹であること、の三つの主題が列挙されている。
親から引き離されたという主題は、漱石も同じだったから、ちょっと生々しい。猫が漱石の分身なのは見え見えだけど、作者は「道草」までは、あまりそうしたことを最初から書いていない。
すると名前と食い物の二つの主題が変奏されていくようだ。この小説が食い物の話が多いのはそのためだろう。
最初に出会った黒猫との会話も、食い物で始まっている。
その後、寒月君と蒲鉾や、子供の砂糖の取り合いなどの話がある。主人は胃弱のくせによく食う。
この猫が主人の残した雑煮を喰らう前に、バルザックの話がある。教養のある猫だと思ったんだけど、読み返してみると、ちゃんと「主人の話しによると」と挿入されている。でも、なんで食い物の話がバルザックの話に変わるんだろう。
もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽くしたという事である
これはいかに何でもこじつけすぎる。飛躍もいいところだ。wikiで調べてみると、バルザックも漱石と同じように里子に出されて、空腹だったため、大食漢として有名だったらしい。ならば、それを書けばいいだろう。
バルザックは美食家だったので確かに太っているし、それで糖尿病になるなど逸話もたくさんあったようだ。
にもかかわらず、夏目漱石は「この男が大の贅沢屋」と紹介するだけで、美食家だったとは書いてない。むしろ逆に事実に反して口の贅沢屋であることを否定さえしている。
なぜ、バルザックが美食家だったと書かないのか? そうすると、文章の贅沢屋につながらないからね。それで抹消したんだろうと思う。
だから私は、事実に反してまでこの「口の贅沢」を「文章の贅沢」に飛躍させる漱石がちょっと異様に思える。誰もヘンに思わないのだろうか?
それに「文章の贅沢」というのもおかしい。だって、これは「Z.Marcus」という名前を探してるんだから。名前の探求であって文章の贅沢ではない。すると猫に名前がないんだから、ははーん、って思う。これは単なる脱線した与太話ではない。
漱石もバルザックも猫も、みんな親から引き離されて空腹だったことで共通している。
ま、漱石が空腹だったというのは言い過ぎかもしれないけれど、主人公が胃弱のくせによく食うというのは漱石自身のことであろう。
それで猫には名前がない。猫にとって名前を求めることが、空腹による飢えに近い欲求だったと考えれば、猫が雑煮を食う前に、バルザックの名前探しの話をするのも納得できる。
食い物と名前の二つの主題が変奏されているとはそういうことだ。
でも、そんなことは調べたから分かることであって、小説には一言も書いてない。
だから、私が不思議に思うのは、この飛躍を漱石が不思議と思わなかったことなんだな。
そうした目で読み進むと、今度は「トチメンボー」で「食い物」と「名前」が再び遭遇する。
もっとも「トチメンボー」は俳人の名前で、それを使って迷亭が洋食屋の店員をからかう話だから、「名前」だけで「食い物」の実体はない。
だけど私は自分の知らない固有名が出てくると気になるんだな。このトチメンボーにされた俳人って誰だろう?
wikiでも経歴情報がないんだけど、毎日新聞・新季語拾遺によると、安藤橡面坊は子規門の俳人で、明治30年に大阪毎日新聞社へ入社し、校正係として働いた人らしい。
ま、漱石が連載作家として就職したの朝日新聞だし、明治40年入社だから新聞社を通じた接点はないとしても、漱石も正岡子規と交流があった点で共通している。
つまり漱石は自分自身を安藤橡面坊すなわちトチメンボーに重ねて、自分は「名前」はあるが「実体」はないと考えていたのかもしれない。すると、「実体」はあるが「名前」のない猫と「トチメンボー」は、漱石の裏表の分身になるのじゃないかと思う。
してみると「実体」はあるが「名前」のない猫と、「名前」はあるが「実体」のないトチメンボーが対称になってるようだ。なにしろ書生は猫を煮て食うということだから、猫に名前がなくても食い物としての実体がある。
名前のない猫を食う話は、名前のあるトチメンボーが食えない話と説話論的構造として完全な対称形になっている。
私の言う説話論的構造とは、言葉の想念内容の秩序(ストーリー)ではなく言葉の形相の秩序(存在としてのあり方)であり、言葉を出来事として捉えたフーコーのエノンセ(言表)にインスパイアされたものである。
こうしてみると、夏目漱石が養父母の離婚によって夏目家へ復縁するまでは、養父の姓を名乗っていたという生のあり方が、この作品における記号の遭遇という説話論的構造の超越的根拠になっている、と私は思う。
考えてみれば飼猫に死ぬまで名前をつけないというのもヘンな話である。明治時代とはいえ、隣の飼猫はみんな名前を持っていたのだから。
猫好きの方はおかしいと思うでしょ? 思わない、あっ、そう。