スピノザの「思惟」
「エチカ」第二部を読んでいると、次第にスピノザのいう「思惟」がいかなるものかが分かってくる。
私が躓いたのは次の箇所である。まあ要するに最初から躓いたのだ。
思惟が神の属性であるのは第1部から言っていることだからいいとして、問題は「神は思惟する事物である。」という箇所だ。
どうもスピノザの言う神のイメージにそぐわないんだな。
私が思惟するのと同じように、神が思惟しているとは思えないからね。
神様が何か考えている? まさか。キモい。
他方、スピノザは神の力能は自由意志ではない(第二部定理3備考)と述べている。
すると神が「思惟する」といっても、思惟も力能であるから、自由意志によって思惟しているわけではない。つまり思惟したり思惟しなかったりする自由はない。あたかも機械のように、自己原因から生じる観念を必然的に自動展開しているわけだ。
人間の思惟は自由意志にまみれている。スピノザについて考えるのも、もうウンザリして考えるのをヤメルのも自由だ。
そういう意味での自由は神にはない。
だけど、人間思惟の自由もやはり錯覚であって、スピノザについて考えるのをヤメっちまうとしたら、その原因が無意識の中にあるんだな。
ただ、それを知らないから「自由意志」によってヤメたと思い込んでいるにすぎない。
すると人間思惟もまた、無意識を原因とする必然的展開と考える限り、神と同様に自動機械として原因から自己展開していることになる。
で、そういう意味での神の思惟は、延長物体の生成と似ている。
つまり自己原因から万物が生じてくるように、思惟もまた自動的に生じている。あくまで比喩だけど、他の属性を映す鏡の破片のようなものが並行して生じているようなものだ。
すると次の定義も非人間的に捉えることができる。
これを人間的に捉えれば、観念とは人間が考えて形成したものである、ということになる。
だけど人間思惟は自由意志に基づいているから、原因に基づく必然性はない。どの観念にどの観念をくっつけるかも自由だし、観念でないものを観念に含めてしまうことも自由だ。存在しないものを観念としてしまうこともできる。原因が欠けているものを原因と取り違えることもある。
つまり「非十全な観念」は人間の生み出したエセ観念であり、妄想であって神の生み出した観念ではない。
これに対し、この定義を非人間的にとらえれば、思惟することに自由意志はなく、延長物体が必然的に生じるように、観念も並行して形成される。
それは神に限らず、「自由意志」の迷妄を除去すれば、すべての思惟にあてはまることだ。
その形成は自由意志に基づかないから、鉄の必然性により諸観念の因果秩序が形成される。
人間以外の物体にも思惟がある、というのは、自由意志に基づく思惟ではなく、延長物体と並行して、それを映す鏡の破片が必然的に結合するような思惟なのだ。
そういう意味での観念には、必然的真理しか存在しないことが明らかであろう。それ以外の結果が生じないのだから、必然しかない。
自由意志を迷妄として除去するというのは、言葉でいうと簡単だけど、それは人間精神を非人間化することでもある。それほどまでに自由意志は、私達に親しい迷妄なのだ。
だけど「エチカ」第二部の精神が非人間化された精神であることは間違いない。そこでいう「思惟する」とは物体の必然的結合に似たものだ。それが心身並行論である。
以上は私の小さい頭で考えたもので、囲碁に喩えるならアマ九級といったところだろう。第一、神の思惟が必然性であるのは当たり前のことだ。
プロ有段者の研究家からみれば、随分初歩的な局面で手こずってますな、といったところだろう。
そこでプロの意見としてドゥルーズのスピノザ論を参照してみた。
私見では「スピノザと表現の問題」は最初から読むと濃すぎて頭がいっぱいになるので、事典のように自分の問題意識に即して拾い読みした方が面白い。特に「第6章 平行論における表現」がお勧めだ。なにしろ書き出しが「なぜ神は産出するのか」だからキャッチーだ、それこそ一番知りたかったことだ。これまでの疑問が氷解する。
人間思惟が必然性として捉えられたとしても、それは神の思惟の必然性とはレベチなんだな。両者が似ているからといって同じだとすると神の有難味がない。問題は神の思惟が万物創造であることをどう説明するかだ。
つまり自己原因の実体である神が「思惟する」ことと、その変様である有限様態である人間が「思惟する」ことの間には、水準の違いがある。
ドゥルーズはその水準の違いを表現概念に基づいて説明してる。
表現概念を人間思惟の水準で捉えると、それは性質が実体を表現する。あるいは実体が性質によって表現される、これが通常の表現概念の理解であろう。
ところがドゥルーズの言う表現概念は、人間思惟ではなく神の思惟に水準を移動させたものだ。するとこうなる。
様態(人間思惟にとっての「実体」)が実体(神)を表現している。
言いかえれば、人間思惟で「実体」とされているものが、神の思惟においては人間思惟にとっての「性質」に過ぎないということである。
それはまた神の表現が様態の産出、つまり人間思惟にとっての「実体」の産出ということでもある。
表現概念が人間思惟と神の思惟とではレベチなのだ。
この表現概念は、スピノザの次の言葉を理解するうえで決定的に重要である、と私は考える。
「神が自己を理解する」? キモい。などと思わないように。
これはオカルトでも神秘でもなく、人格神でもなく、つまり神が人間のように自己を内省しているのではなく、自己意識を持っているのでもない。
あのとき、ああすればよかったなあ、などという株屋のような内省として自己を理解しているのではない。旧約の神がキモいと私が思うのは、人間など創らなければよかったなあ、ということで神が人間を創った自己を否定しているからだ。
スピノザの言う「神」の本性には必然性しかない、ということは自己否定はないということだ。当然、その本性である思惟においても、自己原因から必然的に結果することを「理解する」だけである。
だがなぜ神は自己を理解するのか?
それは神にとって自己を理解するとは、自己の可能性(ああすれば良かった)を理解することではなく、自己原因から生じる必然的結果(様態)を理解することであり、それが様態による表現(説明 expliquer)でもあるからだ。つまり万物創造であるからだ。
言いかえれば神は自己を理解しない限り、表現もなく創造もない。あるいは表現=創造それ自体が神の自己理解である。
当然であろう、自己原因の必然的結果のみを「理解する」のだから。
神の思惟が創造であるとは、そういう意味である。
してみると自分の人生を後悔することは、ありもしない可能性を妄想することであり、何の生産性もないことだと納得できる。むしろ現在の自分から必然的に何が生じるかを理解する方がいい。
必然だから、それは単に認識にとどまるのではなく、実際に実現することが理解することでもある。それは様態のレベルで神の創造の技を示すことでもある。自己理解とは内省ではなく創造である。