欲動とその運命(フロイト著・中山元訳)
自我論集(フロイト著・中山元訳)所収の本論文を読んで最初に思う疑問は、フロイトのいう内部刺激とは一体どこからやってくるのか? これである。
フロイトはまず欲動を定義して、それは外部刺激に対する瞬間的反応ではなく、内部刺激に対する恒常的な力だとしている。
外部刺激が存在することは明らかだが、内部に由来する刺激の源泉とは一体何か。その説明はない。
その正体についてヒントになるのはフロイトが公表を放棄した「科学的心理学草稿」である。そこでは神経末端装置によって外界の刺激量Qが有機体内部の刺激量Q'nへ変換され、刺激量Q'nの増大が不快、減少が快として感受されるとしている。
さらにフロイトは内部刺激量Q'nを伝達するφニューロン、一部を貯蔵し減衰して伝達するψニューロン、さらに内部刺激それ自体を生み出す分泌性ニューロンなどの存在を仮定して、内部刺激量が貯蔵(備給)されて、その差異的配置が記憶になったり、外部刺激とは独立して分泌増大する(不安の昂進など)ことなどを説明している。
後にフロイトはそうした生物学的な見方を放棄しているのだが、精神分析の用語の背景にはそうした神経生理学的考察があるのは確かであり、この内部刺激量Q'nが「興奮量」の元ネタになっているのは間違いない。
「備給」や「逆備給」などの概念も、背景に各種ニューロンがあると仮定すれば、それなりにスジの通った理路であることが分かる。
快とは内部刺激の低減であるから、外部刺激により誘発された内部刺激を低減する方法は外部への放出である。オルガスムが快楽であるのは貯まった内部刺激が局部痙攣の運動エネルギーとなり外部へ放出されるからだ。それは次元の低い生命体にもみられる快楽である。幼児の泣き声も、ヒステリーの身体症状も、内部刺激の放出である。
内部刺激である興奮量について、貯蔵・伝達・分泌を創出する各種ニューロンを仮定すれば、性器の愛撫という外部刺激が内部刺激に変換され、各種ニューロンの自律運動により記憶・連想として性的幻想が生じ、分泌性ニューロンにより内部刺激量が昂進して最終的に身体の局部痙攣により貯まりに貯まった内部刺激が一気に放出されるという一連の過程が明瞭になる。
コンピュータもまた記憶素子が電気エネルギーを貯蔵・放出するが、ニューロンのように記憶素子自体が自律運動することはないので、いくらコンピュータが発達しても無意識・意識が生じることはない、と私は思う。AIで意識が生まれるかどうか議論している人達はフロイトをよく読むべきだ。
仮想空間内で記憶素子を自律運動させない限り、人格転写などのSFネタはムリ筋である。
フロイトは「草稿」において、不快と快を内部刺激量の増大・低減としているが、苦痛と不快を区別している。つまり苦痛とはψニューロンの貯蔵能力を超える大きさの刺激が伝達することである。このときψニューロンは抵抗ゼロとなり、大きな刺激の伝達経路が形成される。逆に言えばψニューロンの許容量を超える内部刺激が苦痛である。だから過去に苦痛があった事実は記憶しているが、苦痛そのものを回想で再現することはできない。幸いにも。
だが苦痛により内部刺激の伝達経路が大きく形成されることは、より大きな量の内部刺激の放出が可能になり、快楽が増大することでもある。逆に放出に失敗すると不快が増大する。いずれにせよ苦痛の漸次的増大により内部刺激の伝達経路が拡張され、快・不快の絶対値も増大してゆく。このことはSM調教にも神経生理的根拠があることを示している。
フロイトは「自我論集」において、マゾヒズムをサディズムの自己への反転としていた見解を改め、マゾヒズムそれ自体の一次性を認めるようになるのだが、それは「死の欲動」のような思弁的原理だけでなく、神経生理学的根拠もあるようだ。
やや脱線して先走りしたようたが、本論文に戻ると、やはり欲動が有機体内部の刺激に源泉があることが重要である。このことは外部刺激からの逃走では、根本的な問題解決にならないということであり、外界を変えることによってしか解決できないことを示している。
人間が自然を快適になるように改変していく原動力は、欲動の内部性にある。フロイトは割と重要なことをサラリと指摘するので目立たないが、次の錯綜した文にそのことがうかがわれる。
「外界が内部の刺激の源泉を満足させるようにする」とは、要するに危険な動物を檻に入れ、家畜を飼い慣らし、家を建てて雨露をしのぎ、食欲・性欲という内部刺激を低減しやすいように「外界を変化」させるということであろう。
さて欲動とは内部的刺激に対する恒常的力であるとして、その「力」の正体とは何か?
まずそれは外的刺激が変換された内的刺激Q'nすなわち「興奮量」とは区別される。むしろ興奮量を除去しようとする力である。フロイトはその力を「心拍」「目標」「対象」「源泉」によって外堀から迂回するように定義していくのだが、神経生理学的見解をとれば、要するに神経システムによって興奮量を低減させる能力のことであろう。
「心拍」とは力の総量、「目標」とは興奮量の低減、「対象」は興奮量を低減させるための手段、「源泉」とは欲動の心的表象の源泉としての身体メカニズムである。「対象」と「源泉」は時折、混同して用いられるが、具体的には性感帯(口、肛門、性器など)や筋肉などである。
性感帯がなぜ興奮量を低減させる手段になるのか、逆に興奮量を増大させるのではないかという疑問が生じるが、詳しい説明はない。そこで推測してみると、やはり「草稿」にあるように、快・不快は内的刺激の絶対量としての増減ではなく、増減の微分係数によるものであり、性感帯の痙攣による運動エネルギーの放出が、高まった興奮量を低減させ、それが快楽になるのではないかと思う。だから性感帯が興奮量低減の手段となるのであろう。ズバリ言えばオルガスムの局部痙攣が興奮量の外部放出であり、それが局部であるのは、過去の経験による内部刺激の伝達経路の形成が各人各様だからだ。その辺の問題は差し障りがあるのか、フロイトも解説書も詳述していないので、妄想かもしれないが、一応、私見として提出しておく。
ブルトンの「ナジャ」の最後の言葉にもこう書いてある。美とは痙攣的なものだろうla beauté sera convulsive.
本論文においてフロイトは欲動の<目標>とは、欲動の源泉における刺激状態を除去することによってもたらされる満足であると定義するが、完全に除去することは死を意味する。あくまで内部刺激の減少傾向に快がある。
また、フロイトはそれを最終目標として、多数の「手近な目標や中間的な目標」が存在しうるとしているが、そのような曖昧なことを言われても困る。「中間目標」とは一体何か?
それは刺激状態が未だ完全に消滅していない段階であっても、減少傾向にある状態のことではないか。ここでも「草稿」が参考になる。それによると、快・不快とは内的刺激の絶対量の増減ではなく、増減の変化傾向であるとしている。つまりオルガスムによる興奮量の低減は刺激の完全除去ではなく、一時的的低減として中間的な目標であると言えよう。結局、興奮量の低減を目指す快楽原則は、その最終目標である刺激の完全な除去において「死の欲動」と等しくなるのではないかと思う。その意味では、快楽原則とは欲動の中間的目標による満足を目指すものと言える。
欲動の「運命」とは、欲動の対象が変化することである。
そして欲動の対象が変化せず、ある特定の対象と結びつくことを、欲動の固着と呼ぶ。欲動は対象・目標・源泉を持っているので、それらの違いにより様々な欲動が生じるが、フロイトは自己保存欲動と性欲動の二つに大別している。自己保存と種の保存ということで生物学的分類のように見えるが、フロイトはあくまで作業仮説としている。
「この分類は最初は神経症、正確には「転移神経症」(ヒステリーと強迫神経症)に適用された」(本書22頁)とあるが、フロイトがこのように「正確に」言い直しているのは、それまでは彼が外傷性神経症を考察から除外していたからであり、「転移神経症」だけでなく、これから外傷性神経症についても考察しようとしているからと思われる。
その場合には、欲動の分類が自己保存と性欲とは「別の分類が必要になる可能性はつねに残されている」(同上)としている。まだ「死の欲動」は登場していないが、その前兆のようなほのめかしが認められる。
フロイトは欲動の分類基準について、他の学問(生物学、心理学など)を参考としたが、結局、生物的視点も意識の観点からも「克服しがたい困難に直面」したため、精神障害の精神分析的研究だけを参考にしたという。
したがって精神分析が性欲動を重視するのは、ヒステリーなどの転移性神経症の診断結果に基づくしか他に方法がなかったという消極的理由による。
他の神経症疾患に拡張するにつれて、性欲動に基づくのと同様の治療効果が他の自我欲動にも期待できるかどうかは不明であるとしている。
性欲動の対象は器官快感だけでなく、加虐、ナルシシズム、文化的活動による昇華など、様々に対象が変化する。それらが性欲動の運命である。つまり哲学も精神分析それ自体も性欲動の運命である。
興味深いのは、本論文においてフロイトはサディズムの対象が自己へ方向転換したのがマゾヒズムであると説明しながら、明らかにマゾヒズムの先行性を認めている点だ。
このマゾヒズムの先行性については、ドゥルーズのマゾッホ論においても言及されている。
フロイトはあくまで学問的に説明しているのだが、「全部説明されなくても分かるわ」と言う人もいれば、マゾヒストでない人にはNatürlichと言われても、なぜ苦痛に性的興奮が伴うのか分からないかもしれない。
その神経生理学的根拠は「草稿」で触れたとおり、ψニューロンの許容量を超える内的刺激によって伝達経路が拡張され、より大きな興奮量が放出可能となるからである。だからNatürlichなのである。
考えてみれば自己保存のための対象破壊というサディズム的欲動では、サディズムに伴う性的興奮の説明がつかないが、引用箇所によると、フロイトはマゾヒズムの享受を基礎としてサディズムが逆行的に生じうる、つまりサディストは苦しむ犠牲者への同一化により「みずからマゾヒズム的に苦痛を享受する」二次的マゾヒストであると説明している。
この辺の事情が抽象的でよく分からない人は具体例として、サド著「悪徳の栄え」に登場するブリザ・テスタの物語を参照することが推奨される。
なおブリザ・テスタの物語は佐藤晴夫訳では当初省略されていたが、読者の「お叱り」を受けたため、別途「閨房の哲学」全集版の方へ付録として収録されている。文学的かつ科学的成果として慶賀すべきことである。
その中では、犠牲者のl’intérieur du con にcamionsをtapisserした後で執行人が彼女をfoutisすると、執行人のvitがsecouerするたびに、そのcamionsの尖端のépinglesがla têteまでenfoncerして、犠牲者はles hauts crisをjeterしたと描写されている。それを眺めていたカタリナ女帝が、こんなdélicieuxな拷問はinventerしたことがないとconvintした、とある。まさに女帝は犠牲者に同一化して、サディストでありながら「みずからマゾヒズム的に苦痛を享受」したことになる。
フロイトのこの見解は、サド作品においてもドルマンセによる動物精気の理論として表明されている。
この点については、秋山良人著「サド切断と衝突の哲学」の中の「原子の衝突と快楽」が詳しい。
それによるとフロイトが犠牲者への同一化で説明しているところを、原子の衝突が神経流体の振動を引き起こすこととして説明されている。これは、ドルマンセの前科学的な言述なのか、それともフロイトの穴を埋めるものか、興味深い論点である。