![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159034754/rectangle_large_type_2_5ef6c5f0d3bc72bdf978d7b8291623f2.jpeg?width=1200)
ドゥルーズ著「スピノザと表現の問題」序論
これから「スピノザと表現の問題」(ドゥルーズ著 工藤喜作/小柴康子/小谷晴勇 訳)について、序論から始めて各章づつ感想を述べていきたい。難解なので今の自分に分かる部分と分からない部分を明確にしたい。
<序論>
序論をナメてはいけない。
ドゥルーズに限らずデリダにしても、序論が難解でツカミがワルい。
それは著者の問題意識が奈辺にあるかが全体を読まないと分からないわけで、どういう意図や文脈で問題意識を立てているのか見えてこないからだ。
特にデリダの序論は何を言ってるんだろう、と言いたくなる。
本書もまた、いきなり「表現」の概念を問題にするんだけど、それは心身並行論との絡みで問題にしているわけで、それが分かってくるのは第6章あたりからだ。
ドゥルーズはなぜ「表現」を問題とするのか、現時点での私の理解を述べておこう。序論に即して言えば、次が重要である。
Dieu s'exprimer en constituant par soi la nature naturante, avant de s'exprimer en produisant en soi la nature naturée.
すなわち、所産的自然を自らのうちに産出することによって神が自らを表現する前に、神は自らによって能産的自然を構成することで自らを表現するのである。
ドゥルーズが冒頭で属性や様態の表現についてゴチャゴチャ言っているのは、要するにこれが言いたいためだ。
つまり同じ表現関係であっても、神と属性、属性と様態との間には本質的に区別される差異がある。
属性が神を表現することと、様態が属性を表現することはレベチなんだな。
なぜなら属性は神の本質を構成するものとして神の一部といってもいいからだ。属性は神の内部にある。言いかえれば属性は実体の変状ではない。
つまり神が属性によって自らの本質を表現する場合、それは神が自ら神自身を構成することである。それはまた神の思惟が自らを構成することでもある。それが「能産的自然を構成することで自らを表現する」ことの意味である、と私は解する。産出ではなく構成だ。能産的自然とは自然を生み出す主体としての神それ自身のことだ。
これに対し様態は属性の外にある。様態が実体の変状であるのは、様態の原因が属性であるにせよ、現実存在としての様態は属性の外にあるからだ。
それが「変状」の意味である。
様態の本質は現実存在を含まない(エチカ第1部定理24)ということを、実体-属性-様態の三者の関係において捉えるならば、それは様態の形相的本質が属性内部にあり、様態の現実存在が属性の外部にあるということだ。言いかえればスピノザは様態の現実存在を否定しているのではなく、それは本質(=属性)の外にあると言っているのである。
様態は可滅ではあるが、実体とともに現実存在するのである。
(根拠「実体および変状(=様態)のほか何ものも存在しない」エチカ第1部定理4証明)
つまり属性が様態によって自らの本質を表現する場合、それは属性内部にある形相的本質を原因として様態を産出することである。それが「所産的自然を自らのうちに産出することによって神が自らを表現する」ことの意味である、と私は解する。
かくして神と属性との表現関係が「真の表現」となり、属性と様態との表現関係が「表現の表現」つまり「真の表現」の表現となる。
このようにドゥルーズが表現概念を重視する理由は、実体-属性-様態の三者の関係、議論の多いこの関係を表現概念の本性上の差異によって統一的に捉えるためである。
そこで「エチカ」によってこれを検証してみよう。
神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ。
このように実体-属性についても、属性-様態についても、エチカでは同じ「表現する」が用いられている。だが二番目の表現は「表現の表現」であること、つまり本質的差異があることをドゥルーズは見抜いたのだ。
二番目の表現が「変状」であり、一番目の表現が「変状」ではないことからも本質的差異があることは明らかであろう。
ドゥルーズが表現概念を重視するもう一つの理由は、スピノザの真理観に関わっている。それはデカルトの真理観との相違でもある。
ドゥルーズはデカルトの明晰かつ判明という真理観を、スピノザが表現概念によって乗り越えたとしている。
ただそう述べられているだけなので、補足してみよう。
真の観念もまた思惟属性、つまり神の本質を表現している。ということは観念が明晰かつ判明というだけでは不十分なんだな。真の観念が十全な観念であるためには、神の本質を表現するものとして、原因から産出された観念である必要がある。
なぜなら上記で説明したとおり、様態による表現とは「表現の表現」として様態の産出だからだ。ということは原因を知らない限り真の観念は十全ではないということだ。スピノザが原因にこだわるのは、思惟の様態を神の表現として捉えているためである。だから第一原因であり自己原因である神との関係として、真理にとって原因の観念が不可欠なのだ。
さらに真の観念が神の本質表現であるということは、知性が事物の外部にあって知性の自由な視点で捉えたものが真の観念ではないということだ。
知性は力能ではあるが、神を含めて人間の知性も自由意志による力能ではなく、神の自己原因から必然的に生じる結果の観念のみを産出する力能である。知るべきものを知るだけである。
ということは方法的懐疑などありえない。それは自由意志による迷妄の観念であって、虚無の観念である。
原因を知る十全な観念は、必然的にそれ自体で真である。
その原因から必然的に生じる結果以外の可能性がないのだから、懐疑の介入する余地はない。
確かにデカルトのように現実が夢ではないか、悪霊に騙されているのではないかと疑うことはできる。だが、それは現実が成り立っている原因を知らないから懐疑が成り立つのだ。原因を知っていながら疑うことはできない。それは真理を知っていながら、真理を知らないというのと同じである。
真理がそれ自体で真理であるとはそういう意味である。
そのあと、ライプニッツや新プラトン主義との関係が述べられているんだけど、そこは知識不足なのでよく分からない箇所だ。
ライプニッツもまた表現概念によってデカルトを乗り越えたとしている。
だからスピノザを理解するだけでなく、スピノザとライプニッツとの関係を理解するうえでも、表現概念が重要だとしている。
新プラトン主義については、表現の相関語が内包impliquerと説明expliquerであり、一見対立するものが表現概念によって統一されていると指摘している。
まあ、そう言われてみれば確かに、表現するものと表現されるものがゴッチャになってしまう。神が表現するとも言えるし、神が表現されるとも言える。それは内包と説明が同じということかもしれない。
この辺は本書全体を読んで再度考えてみる。