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マレーシアの匂い(後)
2024年8月7日、水曜日。タワウ現地の友人に会う約束をしていた。彼女は、華語小学校に通っていた頃の同級生だ。会うのは実に十数年ぶりだった。待ち合わせている店の前で待っていると、どきどきと鼓動が速くなる。南国の太陽は眩しいばかりに輝いている。この暑さなのに冷や汗が背中を流れた。少し緊張してきたようだ。
昔のことである。その華語小学校に留学していたのは小学四年生のときだった。その年の三月に急に四月からは別の小学校、しかもマレーシアの小学校に通うと言い渡されて私は不安でいっぱいだった。華語は下手で、まともにコミュニケーションとれるかもわからなかった。悩んでいても時は過ぎる。
気がついたら、飛行機に乗って、マレーシアの小学生の制服を着て、教科書が詰まった大きくて重いリュックサックを背負って、クラスメイトの前で自己紹介することになっていた。正直、あまり記憶がない。きっと緊張しすぎていたんだと思う。
私は、先生に言われた通りの席に座った。隣の女の子が話しかけてくれた。彼女が私のマレーシアでの最初の友達だった。彼女が声をかけてくれなかったら、八ヶ月もマレーシアの小学校で過ごすことは無理だったのは間違いない。彼女とは、留学を終えた後も海を越えて何年か文通を続けることになり、いまはSNSでやり取りをしている。
マレーシアでの小学校生活はとにかくいろんなことがあった。楽しいことももちろん、つらく苦しいことも。その中でひとつ、とりわけよく覚えていることがある。
歴史の授業だった。エアコンもない教室だったけど、ガラスの板を何枚も重ねた窓から、湿った空気が入り込んで意外と涼しかった気もする。先生の持つ白いチョークがこつこつと黒板を叩く。ノートに板書しながら、私は歴史の教科書のページをめくることに怯えていた。だけど、その瞬間はついに訪れる。
「日本軍は自転車に乗って進み、マレー半島を占領しました」
恥ずかしい。情けない。恥ずかしくてたまらない。消えてしまいたい。教室から抜け出したいのを必死に耐えて、私は口を結んでうつむいていた。教室の中で、いや、学校の中にいる日本人は私だけだった。みんなにどう思われているか気になってしかたなかったけど、想像しただけで死にそうになった。どうすることもできず、ただただ耐えていた。それしかできなかった。
授業が終わっても、先生はもちろん、クラスメイトも誰も私のことを責めなかった。だけど、安心なんてできなかった。怖くてたまらなかった。学食でお昼ご飯を食べようよ、と誘ってくれる友人の顔をまともに見ることができなかった。
小学校の制服の胸元には名前が刺繍されている。私の名前の英語の綴りは日本式だった。その日から日本人だとばれないように刺繍を隠すようにして登校するのが習慣になった。
私はこのことをよく覚えている。日本人としての私は、過去の加害者たる側面を持つ国の人間で、マレーシア人としての私はその被害者であった歴史を持つ国の人間で。
私はいったいどちらの立場にいたらいいんだろうと悩んだ。
恥ずかしいと思ったのなら、日本人としての意識のほうが高いのだろうか。それならば、私は日本人だろうか。歴史の教科書に載るくらい過去のことだとはわかっている。だけども、私は加害者なのか、それとも被害者なのかわからなかった。
祖父母に聞いても、親戚で日本軍の被害に遭った人はひとりもいないと言う。本当だろうか。私に気を使って言わないだけなんじゃないか。
大学で日本統治時代のマレーシアについて学んだ。たくさんの人々が殺された。華人は、中国共産党との繋がりを疑わられて、大金を徴収されて、虐殺もされた。マレー半島にも虐殺を追悼する記念碑がいくつもある。
茶室で知り合った年配の華人の男性は、様々な国々へ旅行をしに行ったけど、日本だけには行きたくないとこぼしていた。その理由はあやふやにされて教えてもらえなかった。
私が生まれるずっと前、両親が結婚を決めたとき、祖父母の家を尋ねて報告をしに行った。一人娘が連れてきたという突然現れたよくわからない日本人の男性に何を思ったのだろう。祖父は一言も口を聞かず、祖母と両親を置いて、車に乗って出ていってしまったらしい。その理由も私はいまだに教えてもらっていない。
考えすぎかもしれない、だが、私はわからないままだ。
日差しがアスファルトを照りつけるのを、日陰から見ていると、すらりと身長の伸びた女性がこちらへ手を振ってやってくる。十数年ぶりに対面した私たちは声を上げてはしゃいで、お互いを抱きしめた。緊張なんか、嬉しさの前ではどこかに飛んでいった。またこうやって会えたことが嬉しくてたまらなかった。
「そういえば、猫の様子はどう?元気?」
「めっちゃ元気!わんぱくのやんちゃ坊主だよ」
店に入って注文をすると彼女にそう聞かれた。私はスマホで福福の写真を見せながら、病院を紹介してくれたお礼を改めて言った。
福福はやっと子猫らしくなった。
黄色の毛並みはつやつやとしはじめて、くしゅくしゅと咳をしてた風邪も治まって、膿んで上手く開いていなかった左目はすっかり治った。黒く汚れていた耳も綺麗になって、大きなふたつの耳とぱちりと光る大きな丸い瞳が福福によく似合っていた。尻尾も伸びて、身体も大きくなった。これからどんどん大きくなるのかもしれない。
私たちは、いままで話せなかったぶん、たくさんのことを話した。学生時代、彼女の仕事について、親との関係、マレーシアと日本の現在……。気がついたらとっくに陽は暮れかかっていて、慌てて会計を済ませて、またねと別れた。私はまだ一ヶ月以上もマレーシアにいるので、絶対またご飯を食べようと彼女と約束した。
八月の末が近づいてくると、街のいたるところにマレーシアの国旗とサバ州の旗が一緒にはためきはじめた。あらゆるところで見かけるが、車体を覆うようにたくさんの国旗と州旗が貼り付けられている一台の車を見たときは、祖父と一緒に笑ってしまった。家に帰ると、祖父も小さな国旗と州旗をふたつずつ柵に固定した。
涼しい夕方、いつものように祖父と散歩していると、家々からたくさんの旗がのぞいていた。風に吹かれて悠々と空を泳いでいる。
八月三十一日、土曜日。マレーシアの独立記念日だ。マレーシアがイギリスから独立した日。その67周年目だ。そして私の誕生日でもある。このことをマレーシア人に話すと驚かれることはしばしばだ。
私はこの日のために事前に予約した誕生日ケーキを受け取りに行った。それだけなのに、なぜか祖父が着いてきた。祖母が祖父に付き添えと言っていた。繰り返すが、私はケーキを受け取りに行くだけである。結局、Grabで行き帰りの車を呼んだ。茶室くらいしか行かない祖父に、友人が教えてくれた新しいケーキ屋なんて知るはずもない。私はケーキの守り人を祖父に頼み、任務は無事に遂行され、ケーキは家の冷蔵庫に到着した。
帰ると、祖母が私の好物を作っておいてくれていた。中華風のとうもろこしと卵のスープ、甘辛く炒めた海老などである。骨がもろくなると祖母が信じて、普段私に飲ませてくれない炭酸のジュースも食卓に上がった。どれもこれも美味しかった。せっかくの誕生日なので、福福にも子猫用のツナ缶をあげると、ぺろりと平らげてしまった。晩ご飯を食べ終わってニュースを観る。華語の報道なので、私でも理解はできた。床に寝っ転がって、椅子に腰掛ける祖父とその横で眠る福福を眺めていると、そろそろケーキを食べるかと祖母が聞いた。うなずいて準備をする。
細心の注意を払って、ケーキを冷蔵庫から取り出してテーブルに置く。備え付けられていたろうそくを刺した。シーリングファンを止めて、祖母が火をつけてくれる。私はリビングの電気を消した。ろうそくの光がこうごうと力強く揺らめいた。
祖母が歌う。
ハッピーバースデートゥーユー。
定番のバースデーソングを繰り返される。こんなことはいままでなかった。はじめての経験だった。
私はもういっぱいいっぱいで、大きく息を吸い込んで、目の前のろうそくをなんとか吹き消した。ろうそくが消える前に願い事をするなんてことは頭からすっかり抜け落ちていた。
電気をつける。テーブルに座ると、祖母がケーキを切り分けようとしてくれていた。
「生日快樂!」
突然、祖父が大きな声でおめでとうと言った。寡黙で無口な祖父にしては、珍しいおおきな声だった。
私は何かをずっと耐えていた。こんなに良い日はもう無い、今日が人生最初で最後の最高の一日だと何回も何回も繰り返した。祖母には、めったなことを言うものじゃないとたしなめられた。
マレーシアのケーキは昔と変わらず、バタークリームで出来ていた。黄色を基調に、向日葵や薔薇といった花々があしらわれたデコレーションの下はチョコレートケーキで、死ぬほど美味しいと言いながら食べた。猫にチョコレートは厳禁なので、おこぼれをもらえないかとうろうろと皆の足元を動いている福福が、間違って食べてしまわないよう気をつけた。
いちばん小さい6号のケーキなのに、たっぷりと盛り付けられたデコレーションのせいか、一切れ二切れで腹がくちくなった。片付けをして薬を飲む。ふたりに「晚安」と声をかけて、椅子の上で目を閉じた福福の頭を撫でた。
自分の部屋に入って、電気を消して寝ようとすると、ぽすと軽い音がした。福福がマットレスに乗りあがってこちらを見ていた。まだ細められていない黒い瞳孔は丸々としている。ガラス玉のようなそれは私を見ているようだった。福福は私の顔に近づくと、ぺろぺろと頬を舐めてきた。シャワーを浴びたのでチョコレートケーキの端っこなんかは顔についていないはずだ。
ねこの考えていることなんてわかるはずもない。私は福福のやわらかい毛並みを撫でた。大きな耳の付け根をこしょこしょとくすぐってやると、福福はごろごろと喉を鳴らした。
満足したのか、福福はマットレスから降りて部屋から出ていった。きっと、祖父の横で丸まって寝るんだろう。祖母がまだ起きているなら、祖父の寝返りで福福は潰れてしまわないように、椅子の上に移動させてくれるはずだ。
横になった身体をリビングと反対方向に向ける。私は今日が命日ならいいなと思った。人生最高の誕生日を迎えて、人生最高に幸福だった。このまま死んでしまってもいいと思った。これ以上の良い事なんて、この先の人生で起こりうるだろうかと考えた。いちばん幸せなときに死ねたら、なんてさいわいなことだろうと思った。
私は今日26歳になった。20代後半の仲間入りだ。でも学生をしていて、社会人経験もない。大学院に進んでるわけでもなく、ただのつまらない学部生だ。
だけど、祖父母にとって、それらはどうでもいいことらしかった。ふたりは私が26年生きてきたことだけを祝ってくれた。私はふたりに何も返せていない。良い成績を取っているわけでもないし、大学だってまだ卒業していないし、卒業できるかもわからないし、いっそ中退するかとまで思い詰めてたくさんの人に迷惑をかけた。
私は祖父母に特別なことをしていない。そもそも、マレーシアと日本では距離がありすぎる。祖父母にとって孫という間柄は近しいと感じられる距離だろうか。今でさえ、十数年ぶりに会ったのに。私は何も孝行をしていない。社会人であるはずの年齢なのに働いてもいないし、お金を祖父母に仕送りもしていない。むしろ、老人ふたりなんて大して金も使わない、二人も三人も変わらないなんて言われて、タワウでの生活は祖父母にお金を出してもらっている。私は何も返せていない。
婆婆と公公は私が生きているだけで喜んでくれるのだ。これが幸せでなくてなんだろう。私は何もしていないのに。私は生きているだけでいいらしかった。これ以上、自分の存在を肯定してくれることはない。十数年ぶりに会った孫の誕生日を祝ってくれる祖父母のことが大好きだ。私にはもったいないくらいの婆婆と公公だ。
私は、私が生きていくためには対価を払わなければならないと信じていた。
学生なら勤勉で成績優秀であるべきで、そうじゃないなら大学生などと名乗ってはいけない。26も過ぎた成人なら働いてしかるべきで、そうではないなら身をわきまえるべきだ。いい歳をしているなら、それに見合った身なりや生活をするべきだ。社会に貢献すべき側に回ったのなら、大人として行動するべきだ。良い成績を取らないと、この家の子どもとは言えないだろう。まだ受験費用を親に返済していないなら、家の事に文句を言ってはいけない。長子なら、姉なら、我慢をするべきだ。親にとって、良い成績を取って面倒じゃない子どものほうが良いだろうし、そうあるべきだ。
対価を払えないのなら、権利を受けることはできない。そうかたく信じてきた。
信じてきたのに。
祖父母はその前提とはまったく違う次元に生きていて、私の誕生日を祝ってくれた。私は祖父母に誕生日を無償で祝ってもらえるほど、祖父母に対価を払っていない。対価を差し出していないのに、祖父母は私の誕生日だというのに、あんなに喜んでくれた。
バースデーソングを歌ってくれて、おめでとうと言ってくれて、バースデーケーキを囲んで、食べながら笑った。こんなことははじめてだった。何も与えていないのに、与えられること。きっと、今回以外にも私が気づいていないだけで多くの人から私は与えられてきたことだと思う。でも、今回は特別だった。だって、私の誕生日だったから。
私は、立派な学生で立派な成人で立派な人間じゃないと生きていてはいけないと思っていた。私が生きていること自体が人に迷惑をかけていて、ひたすらに申し訳なかった。もっと、出来の良い人間だったならと何度思ったかわからない。情けなくて、身勝手で、独りよがりで、どうしようもない人間で、死にたかった。さっさと死ぬべき人間だった。
だけど、祖父母は私という人間が生きているだけで喜んでくれた。何を成し遂げたかなんて問われなかった。私は生きていていいのだと知った。このまま、そのままの自分でも生きていていいのだと。ここにいていいのだ、とふたりは言った。私は対価を払わなくても、払えなくても、祖父母の隣にいていいのだと、祖父母の家だって変わらない私の居場所だと教えてくれた。
私は今日死にたかった。ただ、死ぬにはあまりにも幸せだった。私は声を抑えて、涙を馬鹿みたいに流していた。前にフラッシュバックを起こして過呼吸と涙が止まらなかったとき、祖父母はとても心配してくれた。ふたりにこれ以上負担をかけたくなかった。黙っていても、涙がいくつも勝手に流れ落ちて、枕の色が濃く滲んだ。鼻がつんとした。頬が濡れて、涙が耳につたった。
26年間生きてきて、今日がはじめて、生きていてよかったと心の奥底から真剣に思った。今日この日のために生きてきたんだと思った。この感覚を一生覚えていたいと思った。この記憶だけで一生生きていけると思った。死んでしまいたいほど幸福なのに、幸せすぎて生きていたくて、おかしな心地だった。来年も祖父母に誕生日を祝ってもらえるなら、生きていても、生きてみても、いいかもしれないと思った。マレーシアに、タワウに、婆婆と公公の家に帰ってきてよかったと心から思った。ここは、最初から私の家だった。
9月19日、木曜日。午後のフライトでタワウからクアラルンプールへと向かう日だった。福福を撫でながら、ミスターの車を待った。クアラルンプールには空港しか訪れたことがない。
大学に入った目的のひとつには、マレーシアの大学に留学することもあった。昔のことだ。私がマレーシアに帰るには、完璧な英語と完璧な華語と完璧なマレー語を学んでいないと帰る資格はないと思い込んでいた。
ところが、いざ訪れてみると、どれも必要でもなんでもなかった。そもそも、祖父母は小学校を卒業できていない世代だ。家のために子どもも働くことが当たり前だった。だから、祖父母は難しいマレー語はわからない。
ここには言語のグラデーションがあった。何もかも完璧な人なんておそらくいなくて、それぞれ得意な言語と苦手な言語がある。
それでも理解し合ったり、あえて理解しなかったりしながら、生活をしている。
私はここのグラデーションを織り成す一部だった。マレー語が完璧でなくても、私はほんとうはいつでも、マレーシアのタワウに帰ってきてよかったのだ。
車が家の前に止まる。私は祖母を抱きしめた。離れようとして、名残惜しくて、もう一度抱きしめる。祖父が私のスーツケースをまた持って行ってくれた。スーツケースを預けた祖父をつかまえてハグをする。祖父の骨ばった古傷だらけのたこができた手のひらが私の背中を撫でた。離れがたくてじっと黙っていると、「快要到時間了,去吧」と言われた。祖母が福福を抱いて、祖父と一緒に私を見送ってくれる。車に乗る。
車は走り出して、見る見るうちに私の家から遠ざかっていく。ぴこんとスマホから音がして、messengerに新しいメッセージが来たことを知らせてきた。舅舅からだった。私は思わず潤んだ目元を両手で押さえた。
「感谢你陪伴了公公婆婆。两个多月,给了他们很多美好的回忆」