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運転注意!内宮外宮関係「都祁山口神社/来迎寺/都祁水分神社」神武天皇末裔の場所【御杖曽爾シリーズ】【宇陀シリーズ】

神武天皇の子孫・都祁氏の場所に「都祁山口神社」と「都祁水分神社」は元は1社で今では対になっており、伊勢神宮と同じくそれぞれを外宮と内宮と称していたとか。そのため、秋祭りでは御輿が各々を訪れている。
 現在、奈良市だが、元々は都祁村で、奈良市の南、天理市の東、宇陀市の南にあり、都祁盆地・大和高原と呼ばれる標高400m以上の高地にある。  
 今でも、自然に囲まれる良い神社!!道は狭いので田んぼなどに落ちないようにしましょうね・・・。 「都祁(つげ)」は神武天皇の皇子・神八井耳命の孫である都祁直の場所です。奈良市だがなかなか行けないところ・・・。

この地域について『古代の信仰と生活が息づく 都祁の里』をどうぞ。

変更履歴


▼HP▼アクセス▼祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

 古代「闘鶏(つげ)」とよばれた国があったところで、奈良と伊賀の間に位置し、国中とよばれる奈良盆地の東にあたるため、東山中とも呼ばれてきた。

▽都祁山口神社:奈良県奈良市都祁小山戸町640

  • 祭神は大山祇命

  • 神武天皇の長男で、多氏の祖である「神八井耳命」の孫の都祁直が闘鷄国造となり、小山戸に居住し、都祁氏の祖を祀ったのが、都祁山口神社の起源と想定されます。

  • 古代・闘鶏(つげ)の国鎮守として奉祀され、大和の国の14所山口神の一つ

  • 730年、大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」

  • 808年、牒(新抄格勅符抄)「都祁山口神一戸大和」とあり、当社をさす

  • 859年、伊勢斉王・括子内親王が都に帰る途中、都祁頓宮に入った時、これに従ってきた藤原時忠がこの地にとどまった

  • 代々の神職家は都祁氏だったが、都祁頓宮麻呂の女婿となり、神主職を継いだとされ、以降都祁氏は藤原氏を名乗って神職を世襲した

  • 981年、同所に祀られていた都祁水分神社が友田の阪窪山に移され祀られている。

  • 戦国の争乱によって神社は衰退

  • 北左京之進が郷民を勧めて社殿を造立

  • 社殿の南方の尾根上に「ごしゃお」とよばれる巨石がある

  • 江戸時代、伊勢神宮にならい、都祁水分神社を内宮、当社を外宮としたとか・・・

  • 1687年、拝殿を造替

  • 1879年、本殿を新築

  • 前には鳥居も設けられており、祭祀の対象となっている

  • 天理市に同名の神社がある

当社は古代闘鶏【つげ】の鎮守として奉祀され、大和の国の一四所山口神の一つで、都祁村の山霊を祀る。天平二年(七三0)の大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」、大同元年(八0六)牒(新抄格勅符抄)「都祁山口神一戸大和」とあり、当社をさすのである。
 同所に祀られていた都祁水分神社は、天禄二年(九七一)九月二十五日に友田の阪窪山に移され祀られている。
 当社神主職は神八井耳命の子孫都祁直の末裔と伝え、貞観【じょうがん】年間より藤原氏を称した。以来父子相継ぎ、小山戸殿とも称せられ、暦応【りゃくおう】年中(一三三八-四二)伊勢の北畠氏に属して北と改称、大乗院小山戸庄の下司【げし】職をも兼帯したという。
 戦国の争乱によって神社は衰退したが、北左京之進が寛永年中(一六二四-四四)に郷民を勧めて社殿を造立した。延喜式にも、国が祭を司る神社として記録されている。
 明治四十一年(一九0八)に大字相河【そうご】の丸山に祀られていた國津神社と合併のうえ合祀されている。
 又、本殿の裏山にゴシャオ(御社尾)とよばれる巨岩があり、古代より磐座として崇敬され、当社の歴史を示すものである。

↓神社説明版
コワッ

→参道から拝殿・本殿

→拝殿・本殿

 現在の拝殿は、1687年に造替されたもので。本殿は1879年に新築された。

割り拝殿

→拝殿右「御輿」、摂社・末社

→「磐座」「伊勢神宮・橿原神宮・明治神宮遥拝所」

 裏山頂上付近に通称「かもえ谷」と呼ばれる巨石崇拝の地があるようです。磐座への道は、鞍馬寺(私のNOTE)と貴船神社(私のNOTE)の山道参拝を彷彿とする。が、結構、先が長そうなので、あきらめた・・。

 どんな感じか知りたい方は、次を参照ください。(^-^;

 伊勢神宮(私のNOTE)遥拝所と思いきや、明治神宮(私のNOTE)と橿原神宮(私のNOTE)もセットで拝めるのだが、明治時代以降ですね。。

→帰り

 エサに期待して集まりだす鯉たち。。

→オマケ

▽都祁山口神社と都祁水分神社の秋祭り

 古くより春日大社の若宮神社「おん祭」を模倣して盛大に行われていたようだ。


▽都祁水分神社:奈良県奈良市都祁友田町182

  • 祭神は速秋津彦命、天之水分神、国之水分神

  • 740年、聖武天皇が行幸した「堀越頓宮」の伝承地

  • 1499年、春日造の本殿@重文を造営

  • 藤原氏の荘園だったようだ

  • 本殿の前には、鎌倉末期の作と推定される一対の狛犬

  • 『延喜式』祈年祭祝詞に「水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して 」とある式内社の一つ

  • もともと、都祁山口神社の傍に鎮座していたとされる水分神社であるが、参詣するのに不便ということから、971年、現在の友田の地に遷されたと『水分大明神垂迹記』に記されている

  • 10月25日(もとは旧暦9月25日)に水分社を発した神輿が山口社に渡御、一泊して、翌26日に水分社へ還御するものであり、千年の時を超えて今に続いている

  • 都祁水分神社の鎮座地は大和川と木津川の水源の分水嶺にあり、南への流れは大和川、北への流れは木津川~淀川へ流れる

 車を置く場所がなかったので神社手前に停めさせていただきました。

 大和国水分四社(都祁、宇太、吉野、葛城)の一つで、古来から大和川と木津川の分岐を司る水の神として崇敬されてきた。

 下鴨神社(私のNOTE)、廣瀬神社(私のNOTE)などと同じく良い参道ですね。

 聖武天皇が宿泊した堀越頓宮もあったそうです。

 社務所に御朱印は置かれていなかった・・・。

→境内

 完全にお祭りのときに使うものが多い気がするのだが。拝殿・本殿、能舞台、左右に直会殿、神興舎が配置されている。

 鳥居からの参道と同じく、拝殿までのアプローチが素晴らしい。

舞殿(能舞台)
舞殿(能舞台)

→拝殿・本殿

 本殿@重文は1499年に建造されたものとされ、春日造と思ったのだが、違うよう。

 祭神は速秋津彦神、天水分神、国水分神の三柱。速秋津彦命は川が海に流れ込む河口の神で、天水分神、国水分神は源流の分水嶺の守護神となる。
 この神様の降臨地が、前述した「都祁山口神社」の裏山山頂にある磐座「御社尾(ごしゃお)」である。やっぱ、行くべきだった・・・。

古来大和国水分神四社の一で飛鳥時代に創 祀されたと伝える。初め小山戸、かもえ谷、山口神 社の地に祀られた自然神で、また農耕神とし て、大和川、木津川の水源の神として、天平二年 「神戸」を寄せられ、仁寿二年官社に列せられ、貞 観元年正五位下に進められている。延喜式で は大社に列し月次新嘗の官幣を受けている。 平安時代の中期、興福寺喜多院の荘園が当地 方(都介郷)に成立し、水分神は荘園の鎮守として 天禄二年九月二十五日現在地に遷し祀られた。 鎌倉初期喜多院は大乗院領となり、領内に 成長した、武士は氏人となり、当社は都介郷の水 の神として崇敬せられた。
本殿重要文化財一間社春日造桧皮葺室町中期の造立
御霊舎本殿内に安置康生三年の墨書銘あり
石造狛犬一対高さ〇、七米鎌倉末期の作

上の写真

→本殿右摂社・末社「白龍大神」

白龍大神
白龍大神

→本殿

 本殿前に、鎌倉時代の狛犬があるのだが見えないですね。籠神社(私のNOTE)の狛犬風味です。公式HPに写真がありますね。

→宝物館

→再度境内

 トイレが綺麗な神社なのでトイレ休憩していると境内が騒がしくなった。どうも神社仏閣ツアーの方々??両サイドに分かれて昼食を取っていた・・・

▽来迎寺:奈良県奈良市来迎寺町126

善導大師坐像が有名のようで、詳細がわかる早稲田大学の記事をリンクしておきます。

▼メディア情報

これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。

▼旅行記

▼セットで行くところ

三重

多いので絞り込みます。(検索は「やんまあ 三重北シリーズ」)

奈良

多いので絞り込みます。(検索は「やんまあ 宇陀シリーズ」)

▼仏像展


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