4期鬼太郎を全部見たので語る(後編・印象深い話について)
こちらの記事は後編、4期鬼太郎のエピソードに焦点を当てて語っていきます。
前編、キャラクターごとに語っていったものは以下のリンクからどうぞ
前編の記事でもうだいぶ体力を使ってしまって文面でふざける元気がなくなってきましたが…サクサク行きましょう!
細田守演出回(94・105・113話)
いきなり細田守演出回と銘打ちましたが、細田守監督作品でまともに見たのはサマーウォーズだけなんですよね…。でも、細田守演出回は明らかに他の話と比べて雰囲気が明るい方向に舵を切ってて、とにかくコミカル!テンポがいい!
脚本はそれぞれ違う方のはずなのですが、『味付けが同じだぁ~~~~!』ってなります。やたらぬるっぬるっ動くし。
あと、置いてけ堀回の薬を飲んだ後の鱗がびっしり生えるところとか、だるま回のだるまに群がられるところとか細かい物体が群がる表現が多いですよね。集合恐怖にはちとキツイかなって感じですがサマーウォーズにも似た感じのあったし、アニメーションとして見れるギリギリを攻めてますね。
緩急
他に特筆するところといえば…コントのテンポが手法として確立しているところ!緩と急が意図的に使用されている箇所がありましたね。例えば…
もうだめだ~!→一瞬何とかなる→あぁ~!やっぱだめ~!→ふぅ~…
みたいなくだりが多かったですね。パッと思いつくだけでも…
置いてけ堀回、鮫に食べられそうになるシーン
置いてけ堀回、寿司屋で食べられそうになるシーン
だるま回、だるまさんが転んだのシーン
三匹の刺客回、深夜に派遣現場からトンズラここうとするシーン
で4つもある!これはもう演出の手法として確立して、計算して使っているように見えてきます。
歩きながら
他に話を跨いで共通項を感じる演出は、右から左に歩きながら喋るキャラクターにカメラを追従させて、景色が左から右に流れていく演出。これもパッと思いつくのでは
だるま回、最後のだるま退場シーン
三匹の刺客回、五徳猫紹介前のねずみ男と朱の盆会話シーン
の2つ。2つだけなので意図しているかはちょっぴり怪しいけど、舞台の理論(演劇論っていうのだろうか?自分はその方面に詳しいわけなので聞きかじり知識で申し訳ないのだが)では舞台や画面の上手(右)から下手(左)に向かうとポジティブだかネガティブだかの印象を与えるっていう話があるみたいで、そこに則って構成されたシーンであるかはちょっとわからないものの、話が前向きに進んでいる印象を受けました。画面的にも飽きないし、歩きながら話すのはキャラクター…というより人間的、生物的に身近に感じて親近感が沸いてくる。
多分、今話した2パターンの「シーンの作り方」以外にも何かしらありそうだけど、ただのド素人である私には、これを明確な「味わい」として楽しんで咀嚼して楽しんで鑑賞できたのはなんだか嬉しかったです。
蛇骨婆回(78話)・人食い肖像画回(84話)
これは…(ペロッ)典型的ホラーの手法!
共通する雰囲気
こちらもストーリーがどうとかキャラクターがどうとか、というよりは、間の置き方とかカメラのアングルとかの演出面がガッツリジャパニーズホラー!って感じで本当に味わい深い…。
この2つの回の共通は演出:佐藤順一氏であること。
前述した細田守演出回みたく演出テンプレとして明確に形を捉えて挙げることはできないんだけど、派手ではなく、じわじわ迫ってくるような狂気と恐怖が印象的。
蛇骨婆回
蛇骨婆回は強迫観念(リモコン下駄による物理)によって増幅される恐怖の演出。合間合間にちょっぴり気が緩むようなやり取り(ねずみ葬儀社や、「見てこい 朱の盆(死亡フラグ)」)で緩急を付けつつも、鬼太郎誕生の話が出たあたりから終わりに向かってジェットコースターのように転がり落ちていく様は正にホラーのお手本ですね。
そして最後の最後…鬼太郎を埋めた場所まで確認しに行くぬらりひょん、「見ろ 朱の盆!なんともないぞ!」と埋め立てたコンクリの上で跳ねるシーンで、今まで感じていた恐怖に『人を殺してしまった人間の強迫観念』という ” 名前 ” が付いた瞬間、鬼太郎の手が地面から伸びてきて報いを受ける…。テンポや展開、どこをとっても最高のホラー…!
にしても、『人を殺してしまった人間の強迫観念』を描いたホラーとかサスペンスって他で見たことあるような気がするんですが、パッと作品名挙げられないんですよね…。あった気がするんだけどな…なんだったかな…。
人喰い肖像画回
続いて人喰い肖像画回。こちらはカメラアングルが印象的でしたね。
肖像画という「顔」が重要な題材で、顔を直接的に映さずに足元だけ映したり、玄関で鬼太郎に応対する絵描きの後姿を映した鏡を画面に映したり…。他にホラーを感じたのは、ねこ娘ひとりだけになったときに、後ろの扉がドンドン!って叩かれて追い詰められているシーンで、カメラアングルがZ軸にゆ~っくり回転するところで。個人的な話で恐縮だけど、自分、MMDをさわってカメラアングルをいじる時なんかは意図してキャラクターの顔を映さないようにしてみたり、Z軸回転を使ってみたりしていたので、こういうところで「あ、プロの方でもやるのか…!」と思ってちょっとテンションが上がったりなどしていたのです。
出ているキャラは一緒なのに、細田守演出回と全く正反対でありつつも伝統を感じさせる古典的かつ最大限に恐怖を掻き立てる演出に脱帽せざるおえませんでした…最高です。
ラクシャサ回(89話)
ラクシャサ回を蛇骨婆回・人喰い肖像画回と分けたのは明確に理由があります。
この回、ねこ娘と鬼太郎との関係性に着目されがちですが、一刻堂回と同じく特別脚本家回のようなんですね。脚本は小中千昭氏、演出は角銅博之氏なのですが…ちょっと調べたところこのお二方、serial experiments lainの全話脚本と絵コンテを担当なされた方たちのようなんですよ。そこを踏まえて、アニメ版lainを念頭に置いてラクシャサ回を見ると…『アニメ版lainプロトタイプ版では?!これ!』と感じたのです。
lain
lainに関してここで語るのは脱線不可避だし、自分ではしっかり人様にお出しできる解釈ができているか自信がないので各々調べていただければと思います。Wikiよりかはニコニコ大百科やPixiv百科事典のほうが温度感をつかみやすそうなのでそちらのリンクだけ貼っておきますね…。
個人的な余談ですが、lainについてはyoutubeのわしゃがなTVの星野源氏ゲスト回にて星野源氏が言及してらっしゃるのでそちらから興味を持ってもらうのも良いかも…?
雰囲気
さて、ここから先はアニメ版lainのネタバレもちょくちょく混ざってくるのでそこいらへんも留意して読んでいただきたいのですが、場面における場所のチョイスがもうすでにlainっぽい!!
冒頭、ねずみ男にいつまでもガキのまま、と言われた後のシーンと、大人ねこ娘とねずみ男がエンカウントするネオン街がいかにもlain!鬼太郎は山奥とか田舎の村といった場所が舞台になることが多く、夜の時間帯の人工的な光に照らされた街中が出てきても、単純に人間界の文明的な発展を象徴することが多い気がします(例:土ころび回、吹き消し婆回)。そんな中でも心の闇を暗喩するような都会のネオンの使い方は多分ラクシャサ回だけ!
他にもlainっぽい場所といえば、喫茶店で髪の毛に襲われた後に駅のトイレに駆け込んで鏡を見るシーン。駅が出てくるシーンは猫町回や幽霊電車回がありますが、湿度の高さというか方向性が明らかにいつもの鬼太郎アニメと違う。でも、アニメ版lainを見ると「あぁ、これは雰囲気一緒ですわ…」とストンと腑に落ちるんですよね。
他にもカメラアングルにも注目したいですね。薄暗い喫茶店で、二階の席からねこ娘と鬼太郎を見下ろすような引きのアングルとか、カウンターに置かれた観葉植物の鉢を手前に喫茶店の他の席を映したり…。でもこれはさっきの人喰い肖像画回にも見られた手法なのでlainというより汎用ホラーの手法なのかも。ああいう喫茶店は神保町のさぼうるとかを彷彿とさせますね。舞台で魅せにくるの本当に好きです。
好きになる
最後にlainを意識した要素は例の、
のセリフに
を感じたところです…。
なんていうか、この2つの点に相関性を感じた時点で、このラクシャサ回が「鬼太郎とねこ娘の関係性」ではなく「ねこ娘の内面」の1点に重きを置いたものであると感じてしまうんですよね。あくまで個人的な意見ですが…。
ねこ娘、ひいては少女という多感で不安定な存在の底知れなさがこの話の軸だという感じがします。
最終的な話のオチとして、鬼太郎にねこ娘の不安定な面を受け止めるだけの懐の深さが無ければおそらく全く別の話になっていたと思った次第です。どっとはらい。
一刻堂回(101話)
京極堂シリーズ、完全に未履修なので語っていいのか不安になってきますが、そんな未履修状態での感想も貴重だと思うので残しておこうかと思います。
ぬらりひょんとの契約や、言葉で鬼太郎を追い詰めていくさま…小説映えするシーンのオンパレードでありつつも、鬼太郎ファミリーが学校の校庭に五芒星に配置されるシーンのような、画面映えする展開もありで見ごたえ最後までたっぷりの話でした!
見覚えが…
あと唐突に話題が脱線して申し訳ないのだが、実は鬼太郎4期を見終わってからこの記事を書き始めるまでに、ジャンププラスで貯めたポイントでぬらりひょんの孫を一気読みしまして…。連載をリアルタイムで追って読んでたとき(もう10年くらい前か?)には気がつかなかったのですが、花開院竜二お兄ちゃん…一刻堂さんそっくりですね…。いや、大元を辿れば京極堂シリーズなのは百も承知ですが!!!にしたって今見直すと、あの…なんて言うか…愛されている " 概念 " ですよね。ここまでくると。
飛び越える概念
作品の垣根を飛び越えて存在する概念…妖怪にも通じますよね。近年だと " テンプレ " という言い方があったりするんだろうが、私が言いたいのは異世界転生、悪役令嬢、冒険者成り上がり、みたいな「ストーリーに対するテンプレ」じゃなくて、今アニメ放送中のダンジョン飯みたいなエルフ、ドワーフ、トールマンといった多人種が存在し…世界には魔術が存在し、魔物がいて、それが世界の日常を構成している…といった「世界観に対するテンプレ」に妖怪も分類されるものだと思うのですよ。そしてそのことを意識させるようなストーリー展開や台詞回し、話のオチでしたね。
鬼太郎シリーズの妖怪は固有名がそのまま通名になっているのを逆手に取った展開は、言葉を通じて読者の頭の中に世界を顕現させる小説家らしい最高の話でした…。
鬼太郎や妖怪が存在しているという現実は、
の親父殿の台詞がすべてを体現しているよね…。
妖怪のいる意味
妖怪たちの存在を許す・許さない、排斥する・排斥しないといった観点からは
の台詞の通り、人間の心の「よすが」とか「よりどころ」として妖怪は必要だと一刻堂さんは判断したのでしょう。
例えば誰かと永遠の別れをしたときなんかは、「葬儀」というプロセスをひとつひとつなぞることで心の整理をして、「二度と会えない」ことに折り合いをつける意味合いがあるのと同じように、妖怪の存在も人間の心の折り合いのプロセスの一端を担っているとも言えると思います。トイレで踏ん張ったら変な影を見た!怖い!でもがんばり入道ホトトギスって唱えたから、このあと何かしらの良いこともあるさ!切り替えていこう!…みたいな?
なんでもかんでも妖怪のせいってのは流石に節操が無いけど、超自然的でもいいから心の支えがないと人間はきっと簡単に折れちゃうと思うんだ。
そこからさらに、4期放送当時の世の中の空気感…バブル崩壊後の人間の気持ちに思いを馳せると、「何がいけなかったのだろう?」「この悪い状況の原因はなんだろう?」と常に自責的な問いかけを自分自身に投げ掛け続けているといった、息の詰まるようなものがあったと思います。そんな空気に対するちょっとしたガス抜きや、これをすると悪いことが起きるからそれをやらないように…二の徹を踏まないように…といった戒めが妖怪という形で必要だったのかもしれません。
5期6期は4期のこの状態とくらべると、人間サイドがなんかアレなことになってしまっている話があるらしいとチラホラ聞くので、そのへんもしっかり見ていきたいなと思います。
OPとED
音楽に関してはもう、完全に個人の好みの領域なので流して読んでください…。
歴代でオープニングアレンジが毎回異なるわけだけど、4期鬼太郎のブルース調が3~6期の中で一番好きかもしれない。「おばけ」と「ブルース」の親和性たるや…。これ書いている時点ではほかの期のOPは聞いてはいるのですが、まぁ聞き比べたうえで4期のOPとEDが好きです。
EDのカランコロンの歌のイントロもすごく好きで、しんみりした話の後にカランコロンの歌のギターの弦がつまびかれる様が想像できる寂しげですこしの温かさが感じられるメロディが聞こえてくるのがまた寂寥感があって良き…。
イヤンなっちゃう節も映像の振付が可愛くて印象に残る。
あと、小さい頃から割と疑問だった「OPで学校も試験も仕事も会社もないとか言ってるけど、鬼太郎ほとんど滅私奉公みたいだし作中でもぐうたらしている感じしないよね…?」のアンサーソングみたいになってて感心しましたネ。結構いろんな人が疑問に思ってたか、前期の松岡鬼太郎くんがあんまりにも勤勉すぎるからそれを歌にしたとかあるのかな?
まとめると
殆ど記憶が無いながらも思い出補正がくっきり残ってた贔屓目を抜きにしても素晴らしかった。
3期ユメコちゃんや6期まなちゃんとか、5期妖怪横丁みたいな特別かつ継続的に登場する「その期の特徴」みたいなものが無くても、丁寧かつ最高級の技量で構成された鬼太郎だったと思う。そう、料理に例えるなら、最高級の卵を使ったプレーンオムレツ…。
このあとは別の期の鬼太郎をどんどん観ていこうと思います。
それぞれの期で、その時々に関わった人間の最大限の技量や、その時の世相が、最大限のポテンシャルで詰め込まれたのが「鬼太郎」であると認識して見ていくと色々な発見ができそうでとても楽しみです!