天照覧す 尽く黄泉 朱砂の王
やまとみずほの国に生まれて 第八話
第六話「三貴子の誕生は邪馬台国連合国家の誕生」を閃く前から、ツクヨミが卑弥呼ではないかと妄想していた。アマテラスが太陽だからツクヨミが月とはあまりにも安直であり、月読ならツキヨミだろう。ミステリーでも思いがけない犯人でないと駄作だし、日本神話は天皇家の正統性を顕し、阿波を隠すため壮大な虚構を構築しているから、物語としても面白いに違いない。
卑弥呼は忌み王ではと最初は妄想した。伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王を斎王と呼ぶが、その歴史は古く崇神天皇の御世に斎宮として制度化されるがその前は忌み王ではなかったかと。斎は「いみ」とも読み、正にイザナギの「夜の食国を任す」にふさわしい。またイタコの語源は「斎く(イツク)」との説から、正に鬼道を使うにふさわしいが、発音は「ピミウォ」らしい。
「ピ」が「い」に変化するには一度「ひ」にならないと苦しい。平安時代まで「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」だからこの案はボツである。ツクヨミが卑弥呼なら天の神の声を聞く「憑く黄泉」と変換してもいいのではないか。「憑く黄泉」では「夜の食国」の意味が無くなるので、「尽く黄泉」と変換した。魏志倭人伝に登場するからには最初は人であり、月神は後付なのだ。
そうアマテラスが太陽神になるのも後付だし、持統天皇により女神に変身させられた。ツクヨミを「尽く黄泉」の意味が隠されていることに気を良くし
アマテラスにも隠されていないかと、ひねくりだしたのが「天照覧す」だ。照覧とはよく見るの意味で、天をよく見て高天原を統治せよとのイザナミからの命である。天の思し召し、つまりはツクヨミの宣託通りに統治せよだ。
それならスサノオはどうだと考えると、こちらは「朱砂の王」とスサを変換したら出てきた。朱砂は辰砂のことで正確には「す~さ」と伸ばすらしい。イザナギは海原を任せると言ったが、若杉山の辰砂を掘れでは泣くだろう。真意は辰砂で商売せよかもしれないが。即ち三貴子の誕生とは、イザナギが三貴子に統治方法を名前に込めた意味もある。そう名付け親になったのだ。
魏志倭人伝通りに神話を解釈しても妄想。決め手はないか?証拠はないか?
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