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【おすすめ度 ★★★】田中一平の日本史講座

田中一平という人物は、予備校の日本史講師らしい。
なので、大学受験向けであり教科書をベースにした話をしていることを理解した上で動画を見る必要があることを先に断っておく。
なぜ、この動画を撮り上げたかというと、比較的正しく卑弥呼像を捉えているからである。

卑弥呼をスーパーウーマンと勘違いしてる人がやたら多い 😠

実際はそんなハズはなく、ただのお飾り女王に過ぎなかったと考えるのがまともな考え方であろう。
つまり、卑弥呼は無能だから女王に祭り上げられたわけ。
そもそも、卑弥呼が有能な政治家だったら女王に共立されなかったし、大乱は治まらなかった。
卑弥呼の死後、男王が立てられ再び混乱が生じたのは自身の考えで行動しようとしたため反発が出たからだと容易に推測出来る。
だから、台与を女王にしたら混乱が治まったわけよ 😊
台与の場合、無能というより13歳じゃ幼すぎて政治なんて出来なかったろ。
このことから、すでに女王が何もしなくても国の運営可能なシステムが確立していたというのが解かるだろ ❓ まだ解らないか ❓ 😠

ただ、細かいことを言うと卑弥呼も台与も同じ。
卑弥呼が西暦190年前後に女王に即位したと仮定して248年に没したとすると、60年くらい女王を務めていたことになる。
即位したとき10歳だとして70歳。20歳だと80歳。
当時の平均死亡年齢が約30歳程度だったということを考えれば、80歳はないかな❓🙄
70歳ならありうるかもしれないね。それでも相当長生き🧓
卑弥呼もまだ幼くて難しいことが解らない年齢だったから女王に祭り上げられた可能性が高い。

今、大河ドラマ『光る君へ』を放送してるが、天皇と摂政の関係に近い。
「帝がどなたであろうと変わらない。大事なのは、帝を支える者が誰かということ」なんて道長のセリフがあったが、つまりそういうことだ ❗

190年ごろ即位した人物が途中で没して、別人が卑弥呼の名を引き継いだというケースも考えられなくはないが、それだとなぜ台与は卑弥呼を名乗らなかったのか❓という疑問と矛盾が生じてしまう。
可能性はなくはないけど・・・😏

弟が世話してたという記述があるが、弟なので卑弥呼より若いわけだが、それはずっと後の話で即位した時点の話ではない。


う~ん・・・これはどうだろう❓🙄
それもあるかもしれないが、私は単に遠いところから朝貢に来たのが魏帝は嬉しかっただけのように考える。
魏が倭国の存在や様子を知ったのはどのタイミングだろうか❓
それを考えると、倭国を戦力としてアテにするって考えが239年時点であったかどうか怪しいように思う。

邪馬台国が呉の南側にあると誤認していたという話はどこから出てきたのだろう❓あの地図のことを言ってるのかな❓🙄

卑弥呼って病気で亡くなったの❓😲
死因は分かっていないんじゃ❓

つまり、卑弥呼の墓が前方後円墳であるはずがない❗✊
教科書の矛盾を指摘してる。

纒向遺跡の存在こそ畿内説が全否定される決定的証拠なのだけど、いまだ教科書が畿内説推しなのは、白石太一郎というエセ学者が元凶だという話。
箸墓古墳が卑弥呼の墓だと言ってるのもこの白石っていう老害だ👎💢


一番下の畿内説の話はあくまでも教科書がそうなっているという話であって、田中氏がどこまで本気でそう思ってるかは不明。

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