イノベーションをめぐる時間のずれ。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(14)
ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第14回のメモ。第1巻の第2分冊。第6章「技術革命と技術の遅れ」のうちの「遅かった輸送」「技術史の扱いにくさ」を中心に読みます。
遅かった輸送。
外洋航海の勝利は、全世界の連絡体系の基礎が築かれたという点で計り知れない成功であった。しかし、輸送そのものが速くなったわけではない。輸送の遅さこそが、旧制度経済の恒久的限界をなしていた。この輸送の遅さが交易や人間関係をも支配していた。
輸送のための街道は、好き勝手に生まれたものではない。移動する際の行動範囲として許された選択の幅はつねに限られていた。時に定められた街道以外を通ろうとすることもあったであろうが、それはほぼ不可能なことであった。旅行するというのは、他人のserviceに頼ることだった。具体的には、必要なタイミングで家々や村、泉、そして卵や新鮮な肉を売ってくれる人と出くわせるように自分の行程を調整する必要があった。
ちょっと前によく口の端に上っていた「ホスピタリティ」という語の源が“hospitaux”=巡礼・旅人の宿泊所・慰労施設にあり、同時に病院とも語源としてつながっている点は、あらためて確認しておいてよいだろう。
中国の場合は官吏が公務で旅するために設けられた宿泊所が、一定の距離を隔てて存在していた。それらは大都市や二級都市、さらには衛戍地に設けられていた。そこから町ができた場合もある。日本の場合も、宿駅が設けられていた。
航海の場合は、風向きや海流、寄港地に大きく左右されていたため、沿岸航海を余儀なくされた。寄港地では食糧や水が補給された。
外洋航海がおこなわれるようになったからといって、急に陸上の街道が廃れたわけではない。14世紀初頭になってようやく大規模通商の構造が変化し、行商人という存在が減少していった。移動するのは商品が主となり、その移動は遠隔地からの通信文によって処理されるようになった。とはいえ、ジュネーヴの大市が盛運を迎えるようになったのは15世紀になってからのことである。ちなみに、ユーラシアにおいて陸上交通の基盤となる街道が廃れたのは、航海の隆盛によるものというよりも、14世紀半ばに起きた景気後退によるものとみるべきなのである。ことに、短距離交通に関しては、この契機による影響が大きかった。
そして、もう一つ忘れてはならないのが、舟運である。ヨーロッパでも中国でも、川筋や運河を活用して、多くの輸送がおこなわれた。それゆえに、水上駅が数多くつくられ、また紛争もしばしば生じ、さらには船上で生活する人々も登場してきたのである。
15世紀から18世紀にかけての輸送は、ほとんど進化することがなかった。その点で、当時の輸送を描いた絵画を念入りに混ぜ合わせて、説明文なしに提示したならば、地域こそ判明したとしても、年代を見定めることは難しいであろう。ヨーロッパの場合は、もう少し時代区分を判別できるとはいえ、それでもさまざまな制約が存在していた。ポール・ヴァレリーが「ナポレオンの行軍ののろさは、ユリウス・カエサルのときそのままであった」と指摘するように、ごく一部を除けば、速度も輸送量も貧弱なものであった。徐々に街道が整備されていったとはいえ、それはごく限られていた。それが大きく進歩したのは、18世紀のことである。
そもそも、輸送というのは農閑期の副業でしかなかった。それに、輸送によって得られる利潤はさして大きいものではなかった。とりわけ、陸上輸送や河川輸送の場合は、領主や都市が頻繁に関銭を取ったり、あるいは臨検したりしたため、金銭的にも時間的にもコストが大きかった。さらに、強盗団の存在も大きかった。海上輸送が発達したのは、こういった点を克服できたからである。自由交易が、いわば爆発的に出現したのは、これによる。セイがアダム・スミスと同様に、海上輸送の低廉さを強調していた時代、しかしまだ蒸気船は就航していなかったのである。
そうはいっても、海上輸送のための船舶は、まさに可能事の限界に達していた。それに比べて、道路輸送設備の遅れは際立っていた。これらが整備されるようになったのは19世紀のことであるが、それは大量投資や計画的・体系的改良の結果に過ぎなかった。当時の経済成長によって、これらが「利益を生む」とともに、必要でもある改良となっていたからである。つまり、投資すべき対象と認識されるようになったわけである。
このように、輸送の遅滞は、進歩しつつあるすべての経済社会の用具であるところの交換を妨害し続けた。輸送の遅さ、輸送量の貧弱、その不規則性、そして原価の高さが原因であった。
技術史の扱いにくさ。
技術の過程には加速と制動がある。ただ、それは一定のリズムによるものではなく、むしろほとんどの時間においては停滞し、進歩するにしても目に留まらぬほどしか動かないものであった。しかも、現代の観点からすれば、技術といえば工業をさすイメージだが、18世紀以前は農業技術が基本であった。
そもそも、科学と技術が協力し合うようになるには、社会の役割も重要である。18世紀以前の科学技術は、実際問題の解決には無頓着であった。当時の科学技術は、職人の経験から引き出された秘訣をどうにかこうにかまとめた程度のものだったのである。技師への体系的な教育が登場したのは18世紀のことである。
もちろん、ブローデルが対象とする時代においても、発明はたくさんあった。しかし、それらの多くは死文化した。そういう発見は、当時の誰にとっても必要なかったからである。さらには、その発明が幸運にして重要だと認識されたとしても、その職務に当たっている労働者を失職させるのではないかという虞、そしてそこからくる批判が発明を社会的に必要な“技術”たらしめることを阻んだ。そして、原価の問題である。どの手段を用いれば、もっとも収益が大きくなるかを考えるとき、新しい技術の原価の高さは、その導入を回避するのに十分な理由となる。
にもかかわらず、技術の役割を過小評価すべきではない。発明家の計画書は、いつの時代も書類綴り(ポートフォリオ?)に入れられていた。社会が可能事の天井に衝突するにいたって初めて、自ずから技術に頼らざるを得なくなり、潜在していた発明への関心が目覚めたのである。そのとき、どの発明を選び出すかが大事になったわけである。いつの世にも、幾百もの技術革新が可能性を包蔵しつつ、眠り込んだまま待機していた。それを、ある日になって大急ぎで目覚めさせなければならなかった。それは、ブローデルがこの本を書いていた1970年代においても同じだったのである。
そして、おそらく2020年代の今においても、同じことは言えるであろう。量的な成長であるのか、質的な発展であるのかはひとまず措くとしても、社会の危機的状況に際して、それを新たに生まれ変わらせようとするとき、つねに技術に支えられてきた。その意味において、技術は世界を変革する女王なのである。
私 見。
私も“発展”という言葉はよく用いる。これは、単なる量的な拡大としての成長ではなく、質的な展開を意味するものとして捉えている。ただ、この発展という事象を捉えるのは、なかなか難しい。技術「だけ」で発展が導き出されるわけではない。その意味で、イノベーションを技術革新と訳してしまったのは、きわめてcriticalな蹉跌であった。最近でこそ、こういった理解は減ったと思うが。
その点でも、技術というのが人間の物質文明に深くかかわるものであることを指摘したうえで、それが社会における要求となったときに初めて、発展をもたらしうるのだというブローデルの視座は、よくよく考えれば常識的であるともいえるが、きわめて重要でもあろう。
もちろん、ブローデル自身は、今から述べるようなことなど一言も言っていないので、私見であるが、意味のイノベーションという事態を考えるとき、まさにモノと人との関係性や、人と人との関係性、そういった関係性に内在する“意味”が問われるとき、技術も動き出すのだ、といえるように思う。その点で、まさに今、“意味”が問われているわけだ。そう考えるなら、意味のイノベーションという概念を、企業目線「だけ」で扱ってしまったのでは、その概念の意義も大きく薄まってしまうことに、われわれは留意すべきなのかもしれない。