ポリス共同体/社会的共同関係を支えるのは、やはり愛だ。アリストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(9)。
アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。
今回は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の第8巻。毎回注記してますが、巻といっても、現代的な感覚でいえば“章”に近いです。今回は、愛/友愛に関する内容。前の巻に比べて、言いたいことがけっこうすっきり述べられている感があります。ちなみに、次の第9巻も引き続き、愛/友愛に関する議論です。
読書会での設定文献は↑の翻訳だが、最近になって以下の文庫版の存在も知りました。ここでは西洋古典叢書版を用いますが、たまに光文社古典新訳文庫版を参照することもあるかもしれません。
今回は、訳文に関して、光文社古典新訳文庫版を参照しています。
摘 読。
第9巻は、第8巻の続きである。前巻以上に、より具体的な状況に即した愛が論じられる。
まず論じられるのは、愛をめぐる〈不平〉と友好的取引をめぐる〈不平〉である。そもそも、種類の異なる愛においては、比例的関係によって愛は「等しいもの」にされて、維持される。その共通尺度となるのが貨幣である。
ただ、恋においては、時として相手からの見返りを十分に受けていないと感じて、相手を非難することが生じうる。アリストテレスによれば、それは快楽や有用性を求めるからである。人柄を愛するような愛の場合、それ自体における愛であるがゆえに持続する。
快楽や有用性にもとづく愛/有効の場合、一方の人が他方の人に提供するものの価値を定めるのは、受け取る側である。ただ、ふつうは決まった報酬を相手に渡すのが一般的である(古代ギリシャでもそうであったようだ)。そこで、相手に報酬を渡したにもかかわらず、相手が然るべき価値をもたらすことがなかった場合、やはりそこには非難が生じる。
しかし、相手のためにおこなわれる奉仕に関しては、相手の人自身のために利益を提供するような人が非難されることは、ありえない。なぜなら、徳にもとづく愛は、このようなものだからである。知恵を愛することにともにかかわる人々にも、こうしたお返しがふさわしいとアリストテレスはいう。ここでは、双方にとって価値ある何かがやり取りされるのであれば、それが望ましいという考え方が示されている。
その際、自分にとって善であることを願うというこれまでの議論がベースになっている。そして、そのような高潔な人は、自分にとって善であることを願うように、他者にとっても善であるように願う。ここに成り立つ愛を、アリストテレスは至上のものと考えているようである。その出発点となるのが好意である。ただ、好意は愛そのものではない。しかし、好意はある種の徳もしくは高潔さのゆえに生まれるものであるがゆえに、快楽にもとづくのでもなく、有用さにもとづくのでもない愛が生まれるのである。
さらに、政治的な愛としての協和にもアリストテレスは注目する。これは、単に意見が同じということではない。複数のポリスが有益さについて同意しあい、同じ方針を選択し、共通に善いと思われることをなすとき、その場合にこれらの国々は「協和している」と捉える。ここから、人々はなされる実践的なこと、なかでも特に重大なことで、しかも当事者双方もしくは当事者全員が関与しうることをめぐって協和する。この意味において、協和するとは、政治的な愛であるといえるのである。ここでも、協和は高潔な人々のあいだに成り立つ。というのも、高潔な人々は自分自身とも協和するし、互いにも協和しあうからである。
このように、アリストテレスは自分自身を大事にするのと同様に、相手を大事にし、親切にするということを強調する。その際、自分自身を大事にするというのは、単に利己的であるという意味ではなく、分別にしたがって生きることをいう。
ここで、アリストテレスは幸福(eudaimonia)であるということを論じ始める。幸福であるとは、生きること、現実に活動することのうちにある。徳にもとづく快さこそが幸福である。しかし、自らだけで持続的に活動をおこなっていくということは容易ではない。他人とともに、また他人との関係において活動することのほうが持続的となり、快い。つまり、アリストテレスは他者とともに生きていくということを前提として考えているわけである。その際、自分自身、自らがしていることに自覚的であることが重要であるという。そして、それはともに生き、言葉も考えも共有することにおいてはじめて起こりうると、アリストテレスはいう。それは、幸運なときも、不運なときも、である。
このように、愛とは共同の関係である。ともに生きることは、意味ある活動をともにすることなのである。
私 見。
『ニコマコス倫理学』は講義録であって、詩ではない。が、この章あたりがいちばんの山場であるようにも感じる。決して長い巻ではない。が、アリストテレスが「他者とともに、高潔に生きる」というもっとも自ら主張したいことを高らかに論じているように感じる。
こういったそれぞれの人の徳と間柄にもとづく関係性は、きわめて好もしいものであろう。アリストテレスは、こういった関係性を理想ないし規範として掲げた。それは、私にとっても理想的であるように映る。
しかし、そこには、「そうではない関係性」が数多く存在するという現実認識があったとみるべきであろう。実際、現代においても「そうではない関係性」は数多ある。
にもかかわらず、愛にもとづく共同関係もまた存在する。近年、いくつかの企業をめぐるステイクホルダーのエコシステムにおいて、これと似たような関係性によって成り立っているとみられるようなものもあるように思われる。
となると、「そうではない関係性」があること、そしてそれが人にとって「幸せではない」のであるならば、それを私たちはどうにかしうるのか。アリストテレスが善しとするような高潔な人間に、全ての人がなれるのか。愚かでもある人間が、少しなりとも愛にもとづく関係性に交わることはできるのか。
そんなことを考えさせられる。
そして、これは社会科学の淵源である道徳哲学の問題だろうと思う。