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貨幣と信用。交換という営みの重層性。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(16)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第16回のメモ。第1巻の第2分冊。第7章「貨幣」のうちの「貨幣のはたらきの規則若干」と「紙幣と信用用具」を中心に読みます。

摘 読。

ヨーロッパでは、一階に物々交換や自給自足、あるいは原始貨幣が存在し、上の階には金・銀・銅の金属貨幣が存在していた。そして、最後にはロンバルディア商人あるいはユダヤ商人などが抵当をとっておこなう前貸しから、大商業市場での為替手形や投機に至るまで、多種多様な信用があった。しかも、これは、ヨーロッパに局限された動きではなく、世界的な規模で影響が広がっていった。ヨーロッパ以外の地域の貨幣も、ヨーロッパの貨幣同様に相互に力を及ぼし始めていたが、ヨーロッパの場合、比較的大量の貴金属を有していたために、その貨幣を別の現地経済にもたらす際に有利に働いた。

ヨーロッパにおいて貨幣として用いられてきた貴金属である金・銀・銅は、それぞれに流通する局面が異なっていた。それゆえ、ある国の経済の方向性や健康状態を知りたかったら、どの金属が経済を支配しているかによって、ほぼ一目で察しがつくようになった。

銅は金や銀に比べてやや重要度が劣るので、金と銀に限定しよう。この2つを単一かつ同一の物質として扱おうとする試みは繰り返されてきたが、つねに徒労に終わっていた。そこから、価値の比率を算定しようとする試みも生まれてきた。

1550年ごろまでは金が比較的豊富にあったことから、銀のほうが確実な価値を有していた。ところが、1550年以降1680年まではアメリカ大陸の銀山がアマルガム技術を利用するようになって、銀の産出が過剰になっていった。こういった価値の変動は、その後も続いていった。「悪貨が良貨を駆逐する」という文言も、この金貨と銀貨の価値の変動が順繰りにもたらされたことによる。

さらに、貨幣の動きはつねに円滑だったわけではない。各地の品物をヨーロッパに取り寄せるために、貴金属貨幣はどんどん流出していったし、一方で多種多様な形態をとった貯蓄、そして度を過ぎた蓄財も生じた。

さて、ここで重要なのが、貨幣の乱立ゆえに惹き起こされた計算貨幣、つまり貨幣相互間の共通尺度の発生である。貴金属による実体貨幣とは別に、値打を評価したり、帳簿につけたりするための〈架空〉貨幣である。つねに、計算貨幣は実体貨幣との乖離を生じていた。それが安定したのは、18世紀になってからのことである。18世紀までは、計算貨幣は絶えずその平価が切り下げられていった。

この貨幣流通の速度こそが、経済のありようを規定した。この流通速度の概念は、ダヴァンツァティが気づき、ウィリアム・ぺティが明らかにし、カンティヨンが初めて用いた表現である。この貨幣が手から手へと跳躍していくたびに新しい勘定が決済され、「ボルトで継ぎ目を締め上げるように」交換がつながっていく。決済されるのは、この時点ですでに「差額」にすぎなかったのである。

ただ、一方で18世紀までは貨幣を経ない、あるいは部分的にしか経ない交換も存在していた。物々交換は利益の高を隠すことができたのだが、こういったことも商人の算術の本には出ていた。

貨幣経済がさらに進んだところでは、信用貨幣(紙幣)と有価証券とが流通していた。信用とは、時間の船上で間隔を置いた二つの金銭提供のあいだの交換をいう。つまり、時差を持つ交換である。これによって勘定をつけることが基本になったし、為替手形の原点にもなった。ヒュームも、こういった証書類を目の敵にした。

しかし、こういった動きはひじょうに昔からおこなわれていたことでもある。実際、人類が文字を掛けるようになり、秤を傾けさせる硬貨を操るようになると、硬貨の代わりに文書・紙幣・約束・指図(手形の裏書)を用いるようになった。紀元前20世紀のバビロンでは、市場の商人たちと銀行家たちのあいだで紙幣や小切手がやり取りされていたが、それはきわめて近代的なものであった。古代ローマでも当座預金や帳簿の借方 / 貸方の記載法がすでにおこなわれていた。

ヨーロッパは13世紀になって、射程の長い支払い手段としての為替手形を再発見した。裏書や戻し為替手形といったやり方も、早くから考えられ、用いられるようになった。さらに、16世紀から17世紀にかけては、イギリスやイタリア(ヴェネツィア)でも兌換および払い戻し可能な紙幣を発行するようになっていた。なかでも、イングランド銀行は巨額の信用貸しを紙幣で提供することができ、その発行高は寄託品の現物を大幅に超えるようなことをやっていたのである。それが、結果として大量の貨幣を増やし、商業と国家にまたとない貢献をすることになった。

こういった為替手形などの有価証券は、貨幣とはいったん別ものであったが、裏書きされ、他者に譲渡されるとたちまち本当の貨幣として流通するようになった。パリでは1647~49年に貨幣が商業市場からはなはだしく払底したので、現金は1/4で、それ以外の3/4は紙幣や為替手形で支払われた。銀行家という存在が、経済生活の夜明けの時期にして既になくてはならぬ職業として登場したのも、こういった背景があった。

かくして、シュンペーターに即して、「すべては貨幣であり、すべては信用である」ということができる。シュンペーターのいうところ、貨幣とは信用用具に他ならず、唯一の決定的支払い手段、すなわち消費財を手に入れるための証書である。その点で、貨幣と信用は言語であるともいえるわけである。いかなる社会でも、それぞれの仕方でその言語をは話しているから、あらゆる個人がその言語を習わざるを得ない。読み書きはできなくても生きていけるが、数えられなければ日常生活を送ることさえできない。「数える」ための尺度(価格)であったり、それを記録するための言葉(交換、借方と貸方、変動貨幣)であったり、あるいはそれによって生まれてくる空間(市場)といった言葉が、社会に埋め込まれ、伝えられていった。こういった仕組みは、それぞれの地域において生まれたために、相違も存在する。金銭によって世界は統一されもしたが、不公正も生じたのである。

私 見。

貨幣批判というのは、いつの時代にも生まれてくるものである。今だってそうである。しかし、人間が交換なしには生きていけない以上、その交換をそれぞれにとって価値あるやり取りとするためには、交換される何かが相手にとって、そして自分にとって、どのような / どれくらいの価値があるのかを測定しなくてはならない。一方で、交換が連鎖的になったり、持続的になったりすると、交換ごとに決済するのは手間になる。そこから、信用という概念が生まれてくる。

ここでブローデルが再びカンティヨンやシュンペーターを持ち出してくるあたり、その慧眼に驚かされもするし、またニヤリとさせられもする。企業者(Entrepreneur)の議論とセットで登場するのが銀行家であることは、けっこう有名な話だと思うが、ドイツの経営学者であるニックリッシュも商人的な新しい活動を生み出す(ここに“リズム”という言葉を持ってきているのが、個人的には興味深い)際に、銀行勘定(Bankkonto)の重要性を指摘している。つまり、リスクを冒して、新しい価値の提案をしようとする役割を担う人としての企業者に対して、信用を供与するのが銀行家だということになるわけだ。現在であれば、もちろん金融機関もそうだが、投資家もこれに含まれるだろう。

最近も世上に喧しい「資本主義批判」であるが、それ自体、私は悪いことだとは思わない。なぜなら、それが信用供与者によって受けとめられ、「いかなる将来を実現することが、意義のあることなのか」という点について、新たな世界を切り拓くとき、その批判は経済のSemantikに摂り入れられたといえる。ただ、その「批判」が人間の交換という営みを冷厳に見つめきることなしになされるとき、それは十分な意義をもちえない。

ブローデルが、ここでの最後に貨幣も信用も言語であるといったのは、ディスコースという概念との接続可能性を、私自身は感じる。このあたりは、議論してみたいところ。

[追記]
今回の範囲を読みながら、簿記あるいは会計の役割について、あらためて想い起こすところがあった。私自身は、大学1回生でいきなり簿記の授業で36点を取るくらいには苦手なのだが、最近になって簿記の重要性を実感するようになってきた。簿記では、公正価値をはじめとして、その記録が透明性を持ちうるのかどうかといったあたりについて、いつも議論がなされてきた。帳簿の正当性を確保するというのは、税務会計的な側面からはきわめて重要な意味を持ってくるだろうし、あるいは資金拠出者と執行者(経営者)の分離が顕著になれば、やはり重要になるだろう。

一方で、帳簿がつねに含み益や含み損を持つという点も、ある意味で機能の一つといえるのかもしれない。そのバッファー的機能が、自己金融(出資者による自己資本とは別に、企業という存在が自由に使える資金)を可能にしているともいえる。

会計ルールとは、まさにこういった資金の運動を規則づける役割を持っているわけだ。こういった点から、銀行家と企業者、そして簿記・会計の関係性を考えてみるのはおもしろいかもしれない。資本主義なる社会経済体制を「健全な」状態にしておこうとする際にも、この点を考慮しておく必要性はあるように思う。

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