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企業者的精神≒自由の集積としての都市。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(18)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第17回のメモ。第1巻の第2分冊。前回から第8章「都市」に入っています。今回は「西ヨーロッパ諸都市の独自性」の節を。

摘 読。

ヨーロッパの諸都市は、比類のない自由を導きの星としていた。それらは自律的な世界として、それぞれの持ち前の傾向にしたがって発達してきた。領域国家が地歩を占めるには時間がかかったし、成長するにあたっても都市の力を借りねばならなかった。そもそも、領域国家が諸都市の運命の拡大版に過ぎなかった。

しかし、世界におけるすべての都市が、西ヨーロッパのように発達したわけではない。それはなぜか。まず、西ヨーロッパが直面していた状態から考えよう。

(1)西ヨーロッパは、ローマ帝国の終末とともに、それを支えていた都市の枠組を失うしかなかった。それによって、一種の空白が生じた。

(2)11世紀以降、都市の再生が急速に進んだが、それは農村の活力の上昇や、畑、ぶどう畑、果樹園などの多様な伸長と重なり合っていた。つまり、都市は農村と調子を合わせて成長したのであり、都市の権利は農村集団の自治体特権から発した場合が多い。その意味において、発生期の都市は農村が再編成されたものであったから、後背地の政治的・社会的権威の代表者たちが入り込んだ。

(3)都市が成長したのは、全面的な健康回復や貨幣経済への全面的復帰あってのことである。ただ、そうはいっても実際に都市として発達したのは、ロワール川とライン川のあいだ、イタリア北部および中間部、地中海沿岸のいくつかの都市だけであった。それらの地域に共通しているのは、聖人や職能組合、産業、遠隔交通、銀行が、さらにはブルジョワジー、ある種のブルジョワジー、そしてある種の資本主義が出現したことである。これらにおいては、国際通商とも結びついていた。これらの都市の周辺からは、国家という存在が姿を消した。

ただ、予想外だったこともある。それは、都市のうちには、政治空間を華々しく完全に開花させ、数々の特権で身を鎧った《都市国家》なる自律的世界を形成したものがあったことである。ヨーロッパにおいては、初めて数世紀にわたって都市の時代が到来し、完全な独立を経験した。この自由が得られてから、これらの都市はさまざまな実験を行うことができた。

財政における租税や金融業、公共信用、関税の組織化、さらには公債の考案などがなされた。また、諸都市は産業や工芸を組織だて、遠隔地通商、手形、初歩的な商社および簿記を考案した。しかも、それにとどまらず、階級闘争まで始めたのである。都市は共同体であると同時に、近代的な意味での《社会》でもあった。内部では強い緊張が走っていた。にもかかわらず、外部の敵に対しては共同戦線を張っていた。つまり、都市の市民仲間以外は敵となりえたのである。

ここから、ゾンバルトが(マルクスを意識して)強調した心性や合理的精神が根づいていった。これは西ヨーロッパにおける、当時はまだためらいがちであった初期資本主義の心性であって、さまざまな規則や可能性、計算を併せた全体であり、富むための、また同時に生きていくための技術でもあった。賭けでもあり、危険を冒すことでもあった。商人は、自分の金を節約し、収入に応じて支出を、収益にもとづいて投資を計算していくことになった。そして、時間をも節約するようになっていった。

つまり、西ヨーロッパにおいては、資本主義と都市とは同じものだったのである。そして、都市と国家はそれぞれに侵し合いながらも、都市は国家と結びつき、また国家も都市の制度と心性を受け継いだ。それが進んで、国家の幸運は都市の幸運となっていった。

ただ、この西ヨーロッパの都市のありようが世界に拡がっていったわけではない。さまざまな実験の結果として、
(1)周囲の後背地との区別がない「開かれた都市」
(2)城壁によって厳密に閉ざされているがゆえに、領域ばかりか本体も「閉ざされている都市」
(3)君侯や国家に従属することになった「後見下に置かれた都市」
の3つのパターンが生まれた。

(1)は古代ギリシアの都市国家が該当する。ギリシアの都市国家は一つの都市に広大な田園を加えたものだった。ここでは、すべてが初歩的であった。郭外町も存在しなかった。

(2)においては、まさに排他的な祖国をなしていた。農民が自らの土地を離れて都市にやってくると、たちどころに自由な身となった。それは別の隷従を受け容れることになるという意味でもあったわけだが。しかも、都市にきたからといって、ほんとうに都市の一員になれるわけではなかった。完全な権利を有する市民は、ごく少数であった。この市民としての特権を手にできるのは誰なのかということをめぐって、争いが頻発した。結果的には、都市、その当局、都市に住む企業家の商人が、その特権を手にすることになった。境界線があいまいだったため、それをみはりながら喧嘩腰で、獰猛に、自らの独占権を守ろうとした。郭外町が発達したのも、こういった背景を踏まえておく必要がある。

(3)は国家によって服従せしめられた都市である。ここでは当局、さらには警察の監視によって、服従が課された。

こういった西ヨーロッパにおける都市の発展は、内生的な現象ではなく、内部からも外部からもさまざまな強制を受け、その結果として生じたものである。アメリカ大陸の多く(とりわけ南米)では、土地があまりに広大で交通網が貧疎だったために、ロシアの場合は農村がたくましく余剰を生み出すほどには充実しなかったがゆえに、イスラム圏やアジアにおいては、ほんのいっとき、都市が隆盛を迎えた時期もあったが、固定的な階級構造といった社会構造ゆえに、都市を工芸従事者や商人が動かしていくということは、ほとんど見られなかった。それゆえに、有産市民階級も育たなかったのである。西ヨーロッパだけが、こういった新階級を育てる方向へと進んでいったのである。

私 見。

摘読では引用しなかったが、「もし個人と資本主義とが都市を自由な活動の場としたならば、都市は自らの生活を生きたであろうし、せめてその萌芽だけでも示したことであろうに」とブローデルが書くとき、たしかにヨーロッパ以外において、こういった都市のありようが発展をみることはなかったといわざるを得ない。

それにしても、ここ数年、資本主義批判を聞かぬ日はないほどであるが、こういった歴史的背景を踏まえた批判というのはどれくらいあるのだろうか。(経済的な)自由への希求が、資本主義というありようを足掛かりとした社会経済の発展へとつながってきたことはまちがいない。ブローデルがゾンバルトなどを引きつつ、またさまざまな事実(の断片)を紡ぎ合わせながら、糸を撚り、歴史として織りあげようとするプロセスから窺われるのは、さまざまなドロドロも含んだ、しかしそれが現代の豊かさを可能にしてきたという現実であろう。その豊かさを「もう、いらない」というのは簡単だが、現実にそれが失われたとき、ひとはどう身を処していくのだろうか。もちろん、こう言ったからとて、自然環境に無頓着でいいなどとはまったく考えない。後戻りなどできないわれわれは、歴史を顧みながら、ちょっとずつでも前そして左右の景色を切り拓いていかないといけない。

ここでの節でもまた、ブローデルは企業者的姿勢の発露を一つの軸に置いている。資本主義と都市が同じものであるというとき、まさにこの点をさしている。こういった都市という存在のありようを考えることは、今の企業という存在を捉えることにつながる。それを前節に続いて考えずにはいられない。もちろん、これを参考にして、昔に戻れなどと言っているのではない。

ただ、そういった“活力”をことさらに除外するような動きには警戒してもよいだろう。往々にして、原理主義や守旧主義(それぞれ方向性は異なるが、全体主義的排他性をもっている点では共通している)は、当座の身を護るのには都合がよい。しかし、このブローデルの西ヨーロッパの諸都市をめぐる思索をたどってみると、それぞれが自己の利害を実現しようとして衝突しつつも、協働もし、交渉をも続ける先に〈社会〉と称される時空間が動的に成り立ってきたという歴史的な様相を知ることができる。そういった歴史的な様相を視野に入れずに、ピンポイントだけつまんできて「楽に」取り込もうとしても、それは無理というものだろう。ヨーロッパにおいて、連帯 / 補完性(solidarity)という言葉が重視されるのも、この流れのなかで捉えておかないと、ややもするときれいごとのようにしか映らないことになってしまうだろう。

同時に、ヨーロッパでのさまざまな主張が断片的に輸入されることで、それらがある種の原理主義的な色彩を「輸入先」で帯び始める可能性があることも想定しておいてよいかもしれない。闘争と交渉、そして協働を通じた止揚(現実には、moderateかもしれない)のプロセスが前提とされていることを踏まえずにヨーロッパの思想を取り込もうとすることは、ある種の危うさを抱えている。慌てて付け足しておくが、こう言ったからといって「ヨーロッパの思想を摂り入れるなど、邪道だ」などとあげつらうのは、それこそ論外である。

そう考えると、社会的課題を企業者的姿勢(Entrepreneurship)でもって克服しようとする動きがヨーロッパに多いのも、自然と理解できるようにも思う。さらに、ブルネロ・クチネッリがソロメオという地域を単なる企業城下町にではなく、社会や文化、あるいは自然地理的な側面も視野に入れたテリトーリオとして動的にかたちづくっていこうとしている試みも、こういった都市形成 / 生成の展開と重ね合わせて捉えることができる。

ようやく昨日、一とおり読んだこの論文で、以下のような引用があった。

「進化的アーティストは2度創作する。初度は、アーティストは世界を作り上げることで神のような役割を果たす。二度目は、この作られた世界の庭師でありキュレーターであり、自分が育てた選ばれた作品を解釈して発表することである。彼は創造物を形成するのではなく、存在させる」(Kelly, K. [1994]Out of control: The new biology of machines, social systems, and the economic world. New York, p. 279)

ある種の危うさも含めて、なぜAestheticsとPoliticsが重なり合うのかも、このあたりから窺い知ることができる。マンズィーニの『日々の政治』では闘争的な側面はあまり出てこなかったように思うが、しかしそういった側面も孕んでいることは念頭に置いておくべきかもしれない。

さて、今回の節の最後のところ、日本においては、ほんのわずかな期間ではあったが、堺や博多といった有産市民階級ともいえそうな人々が小規模ながら都市を営んだ時期があった。しかし、それが日本全体に広がるということもなかったし、近世以降は国家(=幕府)によって抑え込まれることになった。しかし、堺や博多といった都市が経済と文化などの一端を担っていた時期があったことは、記憶されていいと思う。




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