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【寝かしつけ】知らない家(2025.01.21)
今日も今日とて寝かしつけ。
次男(3歳)のやつがなかなか眠りやがらない。布団の上にスーパーボール等を持ってきて遊んでいる。私は次男に眠るように言うが、あまり言うことを聞かない。仕方ないので、「怖い話」と称して寝かしつけの話をする。
「知らない家」
近所に誰が住んでいるのか分からない家がある。
ほとんどの窓はカーテンが閉まっていて、開く事がない。だけど一つだけ。道路に面している広い窓のカーテンだけが、時々開いている事がある。
郵便受けは基本的に色んな広告で溢れかえっていて、玄関まわりの雑草も伸びている。だけどいつも知らないうちに広告類は片付けられて、伸びた雑草はさっぱり刈られてしまっている。
灯りが点いているのを見た事はない。だからやっぱり誰も住んでいないのかもしれない。なんとなくずっとその家の事が気にかかっていた。
ある日、その家宛てに手紙を書いたことがある。もちろん苗字も分からないので、封筒の宛名は空白で、自分の名前はでたらめを書いた。そして自分の住所は空き家となっていた叔父さんの家の住所を書き、封入した便箋には「誰ですか?」と一言だけ書いておいた。そして手紙をその奇妙な家の郵便受けに投函すると、家の事はきっぱり忘れてしまった。手紙を書いたことで自分の気持ちに一応の決着が付いた気持ちになったのだ。
あれから40年が経った。その間に私は東京に進学してそのまま就職。結婚し、家庭を持った。子供も2人出来た。しかし上の子が高校生になる頃、私は妻と離婚した。非は完全に私の方にあった。だからというわけではないが、子供たちは皆妻に付いて行った。
そして私は地元に帰った。両親が亡くなり空き家となっていた実家に一人で住む事にしたのだ。
長い年月が過ぎて実家の周りの風景はすっかり変わってしまっていた。散歩をしても、町のどこにも懐かしい気持ちを感じる事が出来なかった。
しかしあの奇妙な家だけが、あの日のままの姿で存在していた。記憶の中のあの家と寸分変わらぬ姿であるように見えた。そこだけうねるような時間の波から取り残されているみたいだった。
私はだからと言って、懐かしい気持ちに浸る事は出来なかった。替わりに、あの頃の奇妙な気持ちが蘇った。たった今解凍されたみたいに、ありありと。
私は仕事を探さねばならなかったのだが、あの家の事が気になって仕方がなかった。だから周りの数少ない親類にあの家の事を訊いてみた。皆相応に年を取っていたので、介護が必要であったり、施設に入っていたりしたのだが、不思議に昔の事はよく覚えていた。でもあの家の事はまるで昔から存在しなかったみたいに、誰も何も覚えていなかった。
私は散歩をしながら何度もあの家の前を通ってみた。時には夜に通ってみる事もあったのだが、やはり灯りは点いていないし、人の気配はなかった。
そうやってぼんやりした日々が過ぎて行った。そしてそろそろ蓄えが尽きてしまいそうだったある日、私宛に手紙が届いた。古く日焼けした封筒だった。それは確かに私宛には違いないのだが、どこか見覚えがあるものだった。
「あっ!」と気づいた。それは私が子供の頃、あの奇妙な家の郵便受けに投函した手紙だった。しかし空白にしていた宛名の部分には私の名前が黒々とした太い文字でしっかりと書いてある。そして住所も正しく、この家のものだった。
それは確かにあの時の封筒だった。長い時間の経過にさらされた紙の匂いと手触りがした。私は気が遠くなるような、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われながら、封筒の口を破った。ぴりぴりと乾いた音がした。
中からは、あの日私が封入したであろう便箋が出てきた。その折りたたまれた便箋を開くと、真ん中に「誰ですか?」と、下手くそな文字で縦に書いてある。ミミズがのたうつような文字だ。
そして便箋の裏に薄っすら何か書いてあるのに気づいた。裏返す。そこには私の言葉に対する返事がちゃんと書いてあった。
「私はおまえだよ」
話し終わると、次男はまだ眠ってなかった。目を真ん丸にして、天井を見つめていた。長男は布団に丸まって、無言だった。
私は「今回は本当に怖かったな!」と言ったが、二人とも何も言葉を発しなかった。そしてそのまま眠ってしまった。
しばらくすると妻がやってきたので、入れ替わりに私は自室に戻った。