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ハン・ガン「菜食主義者」レビューおよび論考



はじめに

こんにちは。ハン・ガン著作の「菜食主義者」を読みましたのでレビューおよび論考を書きたいと思います。第一部と第二部に分けて書きます。

まず第一部ではレビューということで、この著作を読んだことがない人へ向けて、この本にどのような美点があるのかを書いていきます。

第二部では論考ということで読んだことがある人が読む前提で書きます。
ネタバレを避けたい人は第一部のみ読むようにしてください。警告の文言は入れるつもりですのでそれ以降を避けていただければ問題ないと思います。

【レビュー】読んだことがない人向け、
      どんな本か知りたい、読もうか悩んでいる人向け
【論考】  読んだことがある人向け、
      どのように読んだか知りたい、思索を深めたい人向け

結論だけ教えてくれ、というせっかちな人に向けては、
おもしろいのでとりあえず購入して間違いないですとお伝えしておきます
(もし、今日のご飯にも困っているという人であれば、食事を優先してください)。


第一部:レビュー

前段でも記載をしましたが、まずはレビューということでこの本を読んだことのない人に向けて書きます。記載項目は下記の通りです。

 ・どのような本か?
 ・どのような点が良いか?
 ・読むにあたって気を付けなくてはならない点は?



・どのような本か?

どのようなきっかけであれ、この本に興味を持った人はAmazonのページを見て、どんな本かを確認をしているのではないかと思います。
以下、引用してみます。

 “ごく平凡な女だったはずの妻・ヨンヘが、ある日突然、肉食を拒否し、日に日にやせ細っていく姿を見つめる夫(「菜食主義者」)、妻の妹・ヨンヘを芸術的・性的対象として狂おしいほど求め、あるイメージの虜となってゆく姉の夫(「蒙古斑」)、変わり果てた妹、家を去った夫、幼い息子……脆くも崩れ始めた日常の中で、もがきながら進もうとする姉・インへ(「木の花火」)― 3人の目を通して語られる連作小説集” ※1
 
記載の通り、物語は3つに分かれており、「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」となっています。3つの物語は登場人物を同じくしていますので、単純な3部構成と読むこともできると思います。

さすがにというべきで、ごく短い文言で何となくどのような話なのか理解をできると感じます。読み終わった後でも、まあ要約するとこうだよな、すごいなあと感嘆します。

菜食主義者であるヨンヘを中心に据えて、3つの視点から話が展開します。それぞれのリアリティを非常に楽しく読むことができる本だと思います。端的に面白いのでおすすめできます。



・どのような点が良いか?

もう少し突っ込んでみていきたいと思います。
良いと感じたのは大きく2点です。

① 3視点のリアリティ
先ほども記載をしましたが、3つの視点から展開される物語はそれぞれの目線からそれぞれで自分もそうであり得たであろうというリアリティを感じることができる点を非常に面白く感じました。菜食主義者としてのヨンヘの在り様はどこか突飛なところがありますが、それを取り巻く反応は地に足がついており、思考の流れを含めてあり得る自分として感得されるのです。

② 思考のはねっかえり
先の面白ポイントと地続きなところもありますが、リアリティに基づく3視点の反応に対して、菜食主義者のヨンヘは一貫した態度を保ち続けます。3視点からリアリティある反応を楽しんで、ヨンヘへ銃口を突き付ける読者は油断のならない跳弾で打ち抜かれるような恐怖も楽しむこともできます。どういうことか。菜食主義者の急先鋒と見えるヨンヘの行動が、リアリティの基盤を突き動かす楽しさを感じるということです。このはねっかえりがこの物語の面白いところであり、楽しいところです。



・読むにあたって気を付けなくてはならない点は?

一貫して、おすすめをしてきましたが、一応読むにあたって気を付けてもらうように言及をしておいた方がいいと考えるところもあるように思ったので記載をしておきます。

① 菜食主義の是非を深化させる物語でない
3視点の物語ということで紹介をしてきましたが、ヨンヘ自身が菜食主義としての是非を深めていくというタイプの物語ではないということだけ気を付けてください。菜食主義とは何かを知りたいと考えてこの物語を読むと、思ったのと違うなとなるかもしれません。

② 性的な描写もある
直接的な性描写が延々と続くということはありませんが、性的な描写もあります。文学作品を読んでいれば、ありうるかなという範囲のものではありますが、気にされる方もいるかもしれないと思い、一応記載をしておきます。

以上、レビューとしておすすめポイントと留意点をまとめました。
総論として、読もうか悩んでいる人に対しては、読んで間違いないとおすすめできます。
もちろん、作品としての好みが合う、合わないがあること承知をしていますが、好み以前の問題で作品としての完成度が平均水準を軽々と超えていると考えますので問題ないと記載をしています。



第二部:論考


※以降は作品を読んだ人が読むことを前提に書かれています。
 ネタバレされたくないという方は以下を読まないようにご留意ください。


3つの物語から構成されるこの物語は、人間の脱人間的な透過工程を示す。最初の物語「菜食主義者」では父権的なもの、家父長制からの脱却、「蒙古斑」では性からの脱却、「木の花火」では人間性、あるいは生そのものからの脱却が志向される。人が織りなすものとして代表的な社会構造、性、人間性を菜食主義者の身体を通して考えるこの著作は現代の人間の在り方のリアリティと呼応して、物語の強度を存分に保ちながら高い批評性を備えている。物語ごとに見ていこう。



「菜食主義者」


妻・ヨンヘと夫の生活の齟齬が拡大していく様子を通じて、物語のセッティングとヨンヘが生活していた父権的な社会基盤から逸脱していく様が劇的に描かれる。夫の側から見れば、妻は社会生活を脱した、話の通じない化け物であり、生活を脅かすものである。

“私はあの女を知らない、私はそう考えた。
それは事実だった。嘘ではなかった。”
「菜食主義者」P84

規範ある社会ではそこからの逸脱が不可避的に会話不能な化け物を生み出しうる。ヨンヘは何から脱却していったのか。それはヨンヘの父を頂点とする父権ヒエラルキー社会からである。少なくとも物語の中では家父長制が「まだ機能して」いる。子世代がそれを心から信じていなくとも、適応の対象とみなす限りにおいて、それは支配的な権力である。ヨンヘが対峙するのは菜食主義が非難される世界ではなく、菜食主義を盾にとって、脱父権ヒエラルキー行動をとることが非難される世界である。ヨンヘの弟(夫目線では義弟)の言葉がそれを端的に示している。

“不満そうな顔で義弟が席を立った。
「姉さん、お願いだから食べてよ。
 はい、と言って食べるふりだけでもいいじゃないか。
 父さんの前でここまでする必要があるのか?」”
「菜食主義者」P63

父権ヒエラルキーに対する子世代の背反する衰微な態度に、別の圧力が再生産されていることがわかる。すなわち、父権ヒエラルキーを全面的に肯定はしないけれども、社会秩序の在り方として適用的に生きようとする態度を共有しようとする圧力である。ここから逸脱しているヨンヘこそが、夫に「私はあの女を知らない」と言わしめたものである。

ロナルド・イングルハートが書いたように、基本的な価値観は世代間の人口置換によってゆっくりと変わる傾向があり、変化の根本要因が発生してから文化的変化が社会の中で明らかになるまでには数十年単位のタイムラグがある。※2けれども、その文化的変化の過渡期に緩慢な基本的な価値観への適応という圧力の再生産が人間社会のリアリティであり、その姿をすくい上げることが文学の在り方の一つであろう。

適用的に生きようとしないヨンヘは劇的な家族劇の一幕を終えて、脱社会的な存在である烙印を押されることになる。(次の物語の「蒙古斑」において、ヨンヘは夫と離婚をしていることが判明する)この脱却を通じて、再生産される圧力への高い批評性と劇的な争いのイメージとが鮮やかに描き出される。



「蒙古斑」


広義の父権ヒエラルキーからはみ出した存在であるヨンヘが受け止められる段階が性のステージである。ヨンヘを受け止めるのは、同じく一族の中で、父権ヒエラルキーの下位に位置するヨンヘの義兄である。彼は芸術家として生き、経済的な基盤を妻であるヨンヘの姉に負っている。経済的マッチョイムズと親和する父権ヒエラルキーは彼をその身分として周縁に押し出す。社会構造から落っこちたヨンヘの蒙古斑のイメージに囚われた彼は性の結びつきを回路として、脱社会的な存在となっていく。ヨンヘの姉の言葉がそれを示している。

“妻は突然甲高い声で、彼の話をさえぎった。
「救急車を呼んだの」 「何?」
妻はまっ青な顔で、近づく彼を避けて後ろに退いた。
「ヨンヘもあなたも治療が必要でしょう」
彼女の話の真意を把握するのに、数秒が必要だった。”
「蒙古斑」P192

ヨンヘは社会的な逸脱を劇的に行った後で、彼女の義兄によって性的な存在として発見され直したのである。これは、性的な関係性が社会性を超越したものであることを示す。芸術家である彼は生活から脱して性的な関係性の中でヨンヘを見つけるのである。社会的な逸脱行為だとしても生きることの喜びが確かに彼の中で見いだされる。

“四十年近く、一度も経験できなかった燦爛とした歓びが
どこか知らないところから静かに流れてきて
自分の筆先にとどまるのを、彼は沈黙の中で感じていた。”
「蒙古斑」P138

彼が感じる「どこか知らないところ」が脱社会的な性関係の中である。歓びを感じる彼とは対照をなして、ヨンヘはその性関係の中にすら自己の在り方を規定しようとはしない。彼女が義兄に対してする菜食主義の説明は折り合う予兆すらなくすれ違う。ヨンヘは性関係の中にも生きることをせずに、性関係の中に生きるのは彼女の義兄のみである。結局のところ、ヨンヘは性も超越して、菜食主義を通じて感得する何かに向けて、性関係の中からも脱却していくことになる。



「木の花火」


父権社会からも、性関係からも脱却したヨンヘを見つめるのは彼女の姉である。父権ヒエラルキーの中で、経済的な基盤を有する彼女は完全に勝者の側に立つが、妹のヨンヘに対しては、「いつまでも守らなければならない、まるで母性愛のような責任感を抱かせる存在だった」P207として生活態度において対照をなしながら、寄り添うのである。父権ヒエラルキーの勝者の側であるヨンヘの姉はその生活態度において生きることを自明とみなし、ヨンヘが貫いてきた菜食主義に端を発する生きることを自明としない態度と鮮やかな対照をなす。

“何も問題になることはなかった。事実だった。
今までもそうしてきたように、いつまでも生きていけばいいのだった。
他に違う道もなかった。”
「木の花火」P262

“生きるということは不思議なことだと、その笑いの末に彼女は考える。
何かが過ぎ去った後も、あのおぞましいことを経験した後も、
人間は飲んで食べて、用を足して、体を洗って生きていく、
ときには声を出して笑うことさえある。”
「木の花火」P269

社会に最も適応的に生きた強者であるヨンヘの姉はとことんまで素朴に生きることを自明とみなしている。そこに、社会から零れ落ち、関係性の網からもすり抜けて、生からも脱却していこうとするヨンヘが問いかけるのである。

“ヨンヘは顔を向けて、見慣れない女性を眺めるかのようにぼんやりと彼女を見つめた。そして発した質問を最後に、ヨンヘは口を閉じてしまった。…なぜ、死んではいけないの?“
「木の花火」P250

それは常に問い続けられる問いであるはずだが、強者の社会適合においてはあまりに根源的に過ぎて、常に隠蔽され続ける問題である。社会機構も関係性も無化されれば残るのは生きることを真っ直ぐに見据えることだけである。ヨンヘはすべてを脱却して、生と死すら無化して、木のような在り様へ向けて疾走していくことになる。そして、ヨンヘの姉もついにはヨンヘを生きさせようと強いる病院に向けて、もうやめてと叫ぶ。木の在り方とは尊厳の在り方であり、それは父権ヒエラルキーでも性関係でもない別様の生き方であり死に方である。

以上

※1 Amazonより
https://www.amazon.co.jp/%E8%8F%9C%E9%A3%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85-%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6-1-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3/dp/4904855027/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E8%8F%9C%E9%A3%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85&qid=1595435455&sr=8-1

※2 ロナルド・イングルハート「文化的進化論」



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