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⭕日々の泡沫[うつろう日乗]8

この師走の最中、まだ彷徨っている。書かれた文字の中を。彷徨は、まだなのかずっとなのか…。
年が明けてもおそらく…続く…そうしているうちに年が明ける。2022年。

この迷走のはじまりは、弟 今野真二が母親と実家と財産を占有することで、まったくそれらに触れることができなくなってしまい、それを裁判所が合法、むしろ推奨するような動きをして…その結果、鬱になり、仕事を辞め、モチベーションがマイナスになって…袋小路のどん詰まりで鬱にかかった猫が、食事終わると壁に向かって、次の食事まで闇の時間を過ごすようになっているのと同じ様に…このことに関しては、迷走する余地がない。

彷徨は、
誰かが言ったのだ。世界は言葉でできている。
というその言葉からはじまった。
世界は言葉でできているという人たち——だいたいは作家だが…の文学論に従って、フローベールから読みはじめた。訳者の解説を読み、プルーストに進み、ネルヴァル、デュラスとより道をしながら、『幻想の図書館』ミシェル・フーコー○工藤康子訳を読み、というところで、師走を迎えたのだが…

ジョイスはなんといっても「幻覚を戯曲形式で書く」という発想そのものをフローベールに学んだのだと思う。
第十五挿話の〈幻覚〉という言葉は、内容の項目ではなく、〈モノローグ〉とか〈フーガ〉などにならんで〈技法〉の項目におさめられている。つまりここでの課題は、〈幻覚〉をいかなる技法で描くかということにあって~

(幻覚は戯曲形式で書くというのは、これから読んでもいく課題になるだろう。新井高子が『唐十郎のせりふ』でしてきしているように、戯曲のト書きというのは、幻想、妄想を表現する重要な技法である、だろう…まだ身になっていない感覚だが、これからなれば良いなぁと…思う)

フローベールの幻覚を書くとは、『聖アントワーヌの誘惑』のことを言っている。で、ジョイス『ユリシーズ』の第十五挿話が、幻覚を書くという一章なら、早速に読まなければと…ジョイスといったら柳瀬尚紀。

『ユリシーズ航海記』の表紙には、猫と柳瀬尚紀が一緒に本を読んでいるイラストがある。
この猫と柳瀬尚紀さんに、インタビューで一度お会いした。
応接間は庭を見渡せるガラス張りで、案内されて柳瀬尚紀さんを待っていると、ちょうどソファの高さに外の猫がすたすたと歩いてきて、様子を伺いに来た。インタビューの始まりに聞くと、外の猫と硝子越しに交流できるように窓の外にぐるりとキャットウォークが巡らしてあるのだと。柳瀬さんちの猫は…インタビューの最中に隣の部屋からふらりと出てきて、ちらりと僕の顔を見ると、無関心に(他の人に飼われている猫と外猫にとても相性の良い僕としては異例の無関心対応…)こちらを見てからテレビ台の上のテレビ上に飛び乗った。?なんか座布団が引いてあるぞ。
あ、ちょっと失礼。ボクシングの時間なので…と、
柳瀬尚紀は嬉しそうに立ち上がりインタビューを中断し、二本足で立ち上がった猫とボクシングを始めた。猫パンチの応酬ごっこ。ごっこだけど一人の一匹は真剣に決闘していた。
終わると猫はすたすたと別室に帰っていく、あ、名前を覚えていない。聞いたっけ柳瀬さんに。

その柳瀬尚紀さん訳の『ユリシーズ』第15挿話を読もうとしたら…。
衝撃。
本稿は故・柳瀬尚紀氏が死の前日の2016年7月29日早朝まで取り組んでいた『ユリシーズ』第十五章の残された訳稿のうち、訳者が決定稿と確定したと考えられる冒頭部…

冒頭部分だけが収録された『ユリシーズ航海記』を取り寄せ読みはじめたのが元日。
言い様のない気持ちに、元日は黄昏る。

言葉の導師に出会えたのかも…と思ったのに。
残された第十五章冒頭は、詩のようでもあり、なにより言葉がすっと身体に入ってくるような感覚がある。(錯覚かもしれないが…)
これならと。
少なくても幻覚から小説という流れを見ることができる。

読む作法、見る作法というのは重要で、作法嫌いの自分は、これというものが向こうから迎え入れてくれるときに、そこに入っていった。
絵の理解は青木画廊の狭い、暗い空間だった。そしてやりての画商たちの絵の見方。そこにウィーンから混合技法を身につけてきた若手の画家が帰国した。
それが絵画のはじまり。
踊りはたぶん天使館・笠井叡。アスベスト館。
演劇はもちろん寺山修司。
歌舞伎は狂言作者・竹柴源一。
日舞は松井今朝子。

どのラインに乗って理解していこうとするのかは、勘と自分の感覚的業のようなものでしかないが、少なくても手の悪いラインに乗って理解をはじめると、あとが大変辛くなる。永遠に[駄目]な奴になってしまうこともある。

「どっちの読みも成立つ」というふうに、当たり障りのない寛容を口にする人種が文学畑には少なくない。西暦2000年、いかに情実があろうとも、そろそろその寛容の慣用句は廃するのが人間というものだ。(P51『ユリシーズ航海記』)

見るということは、一人でできないこともある。見えていないということに気づいていないこともある。見方を示唆されることもある。そしてそれは言葉によって行われる。新井高子『唐十郎のせりふ』は、示唆に富んだ書物である。

ここからは、唐十郎作『泥人魚』金守珍演出・シアターコクーンの感想。『唐十郎のせりふ』と対話しながら…

幕が開いて直ぐ気がついた。──舞台に密度が足りない。
前回──というのもへんだが…シアターコクーン「ビニールの城」演出・金守珍・森田 剛、宮沢りえ、荒川良々の舞台はさらに密度がないうえに、どたばたして——それはテント芝居のどたばたではなくて、見れたもんじゃなかった。どこがどう悪いのか…見終わっても気持ちは収まらずけっこうぶつぶつ愚痴を言っていた。

金守珍の新宿梁山泊は旗揚げ次の公演から四、五年ずっと見ていて、どちらかといえば贔屓の劇団。座付の鄭義信の戯曲『千年の孤独』を出版した。なので金守珍のテント芝居けっこう好きなのだが、「ビニールの城」の演出はいただけない。本家の第七病棟、浅草・常磐座公演には、及ばないにしてももう少しどうにかならなかったのか。
唐組・久保井研・演出の「ビニールの城」見たが、戯曲を読みこんで演出した素敵な、意味ある上演だった。
唐組の演出を…状況劇場時代の芝居、当時の唐十郎の肉体に寄せて見過ぎていたことに気がついた。そのことを唐組のチラシに書かせてもらった…

『唐十郎のせりふ』によれば、状況劇場を解散して、唐組になってからの戯曲は、それまでの戯曲と少し異なると…。なるほど…。「泥人魚」がその代表作である。

僕が怒りまくっている、前作シアターコクーンの「ビニールの城」は、蜷川幸雄が演出する予定のもので、逝去によって金守珍にお役がまわってきた。当然といえば、当然で、蜷川幸雄のところから唐十郎のところへ行き、今でも唐十郎と深い絆で結ばれていると言われている守珍なのだから。おそらく急遽のことだから、金守珍も成功した演出とは思っていないだろう。それの再戦にあたるのが、今回の、「泥人魚」ということになる。
はじまって直ぐに舞台の密度のなさに飽きれた。前回と変わんないな…。
違いは宮沢りえだった。
主役の[やすみ]を演じる宮沢りえ…登場してしばらくは、ベールが掛かっているようにもやっとしたイメージの[やすみ]だった。(整形したんじゃないのと思えるほど顔の印象が異なった)そのベールを一枚ずつ剥ぎながら芝居が進んでいく。戯曲の中を泳ぎながら、何かを確認していくように何かを見つけていくように─—唐十郎の描く/宮沢りえの読み取る——泥人魚になっていった。こういう演じ方ができるんだと感心した。

宮沢りえ、もしかしたら新宿梁山泊の演出・金守珍をリスペクトしているかもしれない。そんな節もある。でも守珍の演出よりも宮沢りえの発見という感じがする。(これは聞いていないので分からない)
宮沢りえは騒動を起こして(94年)、中村勘三郎と別れてだいぶんたった後の、1996年の新宿梁山泊の『四谷怪談』で、通路を挟んで右側に勘三郎、寛太郎、七之助。左側何人か人をおいて宮沢りえという観客席でたまたま僕も芝居を見ていた。チェーンソウを使う派手な幕切れに、勘三郎、感極まって立ち上がって、な、良いだろう、こういう舞台を見なくちゃいけねぇと、宮沢りえに声を強めて呼びかけた…というより叫んだという感じかな。七之助と寛太郎は、おやじ、なにやってんだよってな顔をして苦笑いして顔を伏せていた。その声ではじめて、宮沢りえと勘三郎に気がついた。
あれ、別れてたんじゃないの?ということよりも、何百回も演じたり見たりしているだろう『四谷怪談』で、他の劇団のもので、感動して泣いたりするんだ。すごいなぁとつくづく感心した。小芝居が好きで、感動屋の勘三郎だが、そういうことでなくて…芝居の奥に流れる時代を超えて伝わってくる情念に、真剣に向き合い掘り起こす舞台に、その情念に涙しているんだと思った。勘三郎はその感動力によって、芝居馬鹿という言葉を唯一無比のものにしている。彼だけに与えられるべき言葉。
そこに居た宮沢りえのことを思い出した。いろいろな体験がいま息をもちだした、な。

唐十郎の戯曲の中を、自らの意志で人魚になって泳いでいるようだ。本来、唐の戯曲に主役はない。何人かが主役のような役割を果たす。しかしこの舞台では、宮沢りえが読みとり次第に姿をはっきりと見せていく「泥人魚」の世界観を軸に金守珍は演出していように見えた。
宮沢りえは、パンフレットにこう書いている。「今までの作品(唐十郎の)とは少し流れている空気が違う気がしました。」と。役者が自由に演じれるように、そして演出の自由度が高くなっている戯曲に、宮沢りえは、自由に演じれる隙間を見つけたのだ。そして自分の[やすみ]を見つけたのだ。
唐組時代の唐十郎の戯曲には隙間があるのだと思う。その隙間に宮沢りえは泳ぎ場所を見つけたのだと思う。(未完)



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