⭕日々の泡沫 [うつろう日乗]5
自分の主宰していた雑誌に、追いつめられるとは思わなかった。『夜想』をやってきた姿勢、考え、感覚…すべてを根底から揺さぶられた。揺さぶられたというより、がらがらと破壊された。
そこに書かれた一文。改めて。
幻想(それ)を眼に見える映像として実際に見たことがあるのかもしれないと、ヘルダーリンやネルヴァルのように思わせる詩人は存在するが、たいていの者たちはそうした狂気や幻想を「本」によって体験し、言葉の性格上、増殖する生命を生きることになるので、忘れかけていた記憶の水面下の柔らかな泥濘のような層から浮かび上がるものに読書の中で何度も出会うことになる。
(金井美恵子)
こんなこと文学を読んでいたら常識的なこと。知らずに雑誌をやっていた自分にちょっと驚くし、それでかろうじて立っていたのだから、そのことだけは付がある。体験した幻想(それ)はいまだに自分を形成しているものでもある。
幻想(それ)を寺山修司、土方巽、ヨーゼフ・ボイス、勅使川原三郎たち(もっともっと多くの人に、もっともっと多くの場所に)によって体験した。もちろん自分で作り出したことはない。言葉にできないまま、編集できないまま、雑誌にした。それが『夜想』だ。とくに10号目あたりまで。うまく編集でなくて、伝わってないのでは、存在できてないのではという思いは長くあった。だからやっぱり…と一瞬にして理解した。『山尾悠子』特集で、他者に編集を委ね、側で見て、それに気がついた。そして金井美恵子の一文が決定打になった。
どうしたら良いのか? どうしたら良かったのか?
仮の方程式。仮に自分がネルヴァルのような素養をもっていたとして、仮に自分が幻想(それ)を眼に見える映像として実際に見たことがあるとして、見ないまでも体験していたとして、どのアプローチをすれば、ネルヴァルのように書けるか? それを知りたくて、ネルヴァルを読みはじめた。知るだけでいい。できなくてもいい。できるはずもない。しかし力量あれば別の道で可能性あったのか? ネルヴァルか…。それが知りたかった。可能性があったのか、まったくなかったのか。
金井美恵子の読んできたあたりを探りを入れて、フローベールから、プルースト『失われた時を求めて』…蓮實重彦…そんなところを読み…そこは確かに先人の言葉を我が身にすることで生まれる文学だった…そしてネルヴァルの深い夜に身を挿れた。『火の娘たち』「シルヴィ」野崎歓訳。
かつて…かつてというには昔すぎる、記憶の中でも曖昧になりつつある、創刊の動機の一部、雑誌『牧神』。そこにでていた篠田知和基さんのネルヴァルとは大分異なるものであった。でもあの頃、ネルヴァルから、何を読み取ったのか。あるいはいないのか—何も読み取っていないのだ…ネルヴァルには、絵画で言えば『天国への逃走』。マザッチョが絵画史に果たしていることに似て、「シルヴィ」は、たとえばプルーストのパリンプセプトになっている。パリンプセプトというのは、元々の文字を消してその上に新たに文字を書いた羊皮紙のことで、見えなくなっていた文字が、科学的処理によって浮かび上がってくる。ふとしたきっかけによって記憶の古層からよみがえってきて、自らの文体に宿っていくことだが、それが小説「シルヴィ」だ。
マルセル・プルーストに「『シルヴィ』のなかには、つねづね私が表現したく思っているいくつかの謎めいた思考法則が、みごとに表現されてい」るといわしめ、「自分にも、あの『シルヴィ』のような幾ページが書けたら」と嘆息させた。その評価は、ネルヴァルが「自分の画面を夢の色彩に染めあげるすべをみるけることができた」点に由来する」
プルーストによれば「純朴な絵とも見なされているこの物語が、実は、とある夢のまた夢なのだということ。」を忘れてはならない。ひとつの夢想がさらに記憶のより深い淵へと導かれていくような「シルヴィ」の展開は、プルーストをはるかに先取りして「失われた時」を探求する歩みを描き出していた。(第一章は「失われた夜」と題されている。)野崎歓の後書き。
ネルヴァルは、フロベール、プルーストたち先駆であり、さらにシュルレアリスム・ブルトンの先史でもあった。野崎歓は『異邦の香り』で、ネルヴァルの『東方紀行』を、ネルヴァルの小説と同時代の小説の中で紀行するという愉しみを著わしているが、フローベールの『フローベールのエジプト』にしても『東方紀行』にしても、書かれた旅行記とヨーロッパから想像する妄想の狭間での有り様が紀行文になっている。
ネルヴァルは、
「物語の抗いがたい力」に精神をゆだね、過去の人物、さらには自らの想像力の生んだ 架空の人物に「同一化」し「化身」することで作品を作り上げる、狂おしさをはらんだ創造のメカニズムがあった。
「創り出すことは結局のところ思い出すことだ」いわば文学的な「魂の転生」の連鎖のうちに身を投じ、他者のドラマを自ら生きなおしながら、それを作品に綴ろうとするのだ。(野崎歓)
ネルヴァルは、自分の著作を引用したり嵌め込んだりし(カフカみたいだ。いや逆だろ)、歴史物語の登場人物に憑依していく。そこに存在するものが、おそらく「幻視」と呼ばれたもので、仮に幻を見たとして、それは膨大な全史の書き物の上に、裡に懐胎するものであって、まさに文字が透けて見えている。
『忘れかけていた記憶の水面下の柔らかな泥濘のような層から浮かび上がるものに読書の中で何度も出会うことになる。』作家であり、それはプルーストやフローベールよりもその傾向は顕著である。二人の文体の先史にあたるのがネルヴァルなのだ。
ネルヴァルなら何かの道を見せてもらえるのでは。その道は自分に歩けない道でも…。と、思ったのはさらなる誤りであった。
ネルヴァルもまた、先史文学の変異と関係して存在する。
どうしたら…よかったのか…それすらないのか。やはり世界は言葉でできていて、作品は作品を読むことによって作られるのか。ならば、自分はまったくそれに反して雑誌を作ってきたことになる。
何を読めば…。いや、どうすればいいのだこれから。
[うつろう]の闇はさらに渾沌として深くなった。…世界は闇でできていると、Macで文字変換がミスをした…ミスをしたのは僕の無意識…僕にはそうしか思えなかった。闇に言葉は一つは必要かもしれない…必須かもすれない…が、それ(幻想)は言葉でできあがるものではないと思っていた。そこにあるものだと。