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読書感想文  高橋源一郎「ぼくらの戦争なんだぜ」を読む 歩くことについて 出発と小休止

歩くことについて書いてみたい。歩くことは人間にとって基本的な動作である。ホモ・サピエンスと歩行の関係は、人類の進化と生存において非常に重要な役割を果たしてきた。二足歩行の獲得により、ホモ・サピエンスはアフリカ大陸から世界各地へと拡散していった。長距離の移動は、新たな食料や資源を求めて行われ、気候変動や環境の変化に対応するためにも重要だった。

四足歩行よりも二足歩行のほうが効率がいいので長距離を移動することが可能になったという説明は説得力がある。歩くのに慣れているせいかもしれないけど、四つ這いで移動するのは苦しい。安定性は四足歩行にほうがある。でもきっと二足歩行のほうが効率は良さそう。

私も毎日あたりをぐるっと30分ほど歩いている。気持ちのいいものである。快楽といっていいだろう。家の中でPCの前に座っていると息が詰まる。青空が見えるときも、雪が舞っているときもそれなりにいいものだ。

歩くということを書こうとするときに思い浮かぶことがある。高橋源一郎の「ぼくらの戦争なんだぜ」の中に出てくる詩だ。中国大陸で兵士として従軍した風木雲太郎さんの詩だ。詩を引用する。

「進軍
 ー杭州に近く
 小ー休ー止  銃を杖に へたへたと 座りこむ  雪解けの路
 何も要らない 水も 煙草も 面倒くさい 皮も 肉も 骨も くたくた と  布や 棒や 板 となり  眠だけが 柔らかい 腕を 投げてくる 朦朧と 大地に 吸い込まれる 十分間
 出発!  遠い  どこからか 聞こえてくる  聲  ざわざわ と 近寄ってくる 音  あゝ出発か あらぬ方に さまよっていた  魂が肉骸に入り 真綿のような眠りを  未練気に脱いで 立ち上がり  銃 を  ひよいと肩に のせると 足が 動く  新しく  激しく  疼く  足指から 知覚が めざめ  冴えわたる  凛冽の雪の路  黒々と歩いている 戦友  外套を引きづり  泥の飛沫  肩まで 撥ね 散らし  黙りこくり  泥濘に一歩一歩 脚を埋め  抜きとり  何十日か  汗と垢と泥を 甲羅とつけて 歩き続けている 戦友!
(以下略) (杭州)」 

高橋源一郎  「ぼくらの戦争なんだぜ」

雲太郎さんは兵士として広い中国大陸を行軍していく。小休止は10分であろう。大休止は多分一時間だ。そして毎日歩かされる。続いて高橋源一郎は書いていく。

風木さんは歩く。 ただ歩く。中国の広大な土地を。 兵士とは「歩く」ものだ。 「戦争」とは「歩く」ことなのだ。そんなことは 誰も教えてはくれなかった。 風木さんを「 万歳!」の声で送った人たちも知らなかった。軍隊のエラい人も、社会のエラい人も、みんな知らなかっただろう。 「戦争」とは「歩く」ことなのだ 。中国という 途轍もなく広い土地を、どこまで行っても、同じ光景 、地平線が広がる土地を、風木さんたちは歩いていく。 進んでゆく。聞こえてくるのは「 小ー休ー止」ということばと、「出発」 ということばだけ。 もしかしたら、 この世界には、 そのふたつの言葉しかないのかもしれない。
 

高橋源一郎  「ぼくたちの戦争なんだぜ」

私は二つの言葉しかなくなった世界のことを考える。でももしかしたら、本当は世界にはこの二つの言葉しかないのかもしれないと思えてくる。私は「戦争」を知らない。「戦争」が歩くことなのかどうかもわからない。

でも仕事で疲れた時に休憩すると回復することは実感する。10分でも休むと回復するのだ。休憩の時間になれば、自販機でジュースを買って飲んだりしたものだ。人間は疲れる。でも私と書いた瞬間に、私は疲れないかのように書かれているのがずっと不満だった。疲れを描きたいと思ってきた。疲れや不眠について書いた哲学者もいる。

でも「小ー休ー止」と「出発」の二つの言葉しかない世界は疲労を確かに描いていると思った。歩き続けるとは疲労するということだ。長い時間を描くことは難しい。長くすればいいというものではないからだ。疲れとは長さからくる。いつ終わるかわからない大量の文書との格闘も「小ー休ー止」と「出発」の二つの言葉しかない世界ではなかったのか。

二つの言葉しかない世界は単純だ。その単純さの中を生きるしかなたったとしたらどうだろう。単純さは幸福だろうか、それとも不幸なのだろうか。それすらもわからず、私はまた出発の声を聴くのだ。


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