正岡子規のおじさん加藤拓川のこと
その人が生きていたら人と人を繋ぐことがとても大切な今の時代、きっと様々な事を教えてくれただろうと思った人物のお話を伺う機会がありました。
正岡子規の叔父の加藤拓川のお話です。
毎月1時間食事をして卓話を聞く会があります。大学のOBの会合です。
様々な分野の方たちのお話を伺うことが出来るのですが、今回は松山大学創設に尽力した三人のうちの一人の人物のお話でした。今年は大学創設100周年だからこそ、その人物が特にクローズアップされたのです。
お話をされたのは何故か刑法に詳しい教授でした。
私はとても興味深く伺いました。
加藤拓川は愛媛県松山市に生まれて、外交官としてフランス代理公使、ベルギー全権大使、シベリア全権大使などの仕事を続け、国会議員、松山市長も勤め、私の住んでいる愛媛県松山市に大変貢献した人物です。
俳人正岡子規は加藤拓川の甥になります。
加藤拓川は正岡子規が上京するのを支えたり、多くの人物を紹介し、たくさんの本をプレゼントし、子規が活躍することになる新聞日本の陸羯南を紹介するなど、正岡子規の活躍を裏で支えた人物でもあります。
加藤拓川は内閣総理大臣になった原武とは学生時代に強い友情で結ばれ、生涯仲が良かったそうです。
外交官時代には西園寺公望とも親交を深めます。
外交官から衆議院議員になり、大阪新報社の社長も務め、銀行の非常勤取締役も経験します。
亡くなる寸前まで松山大学の前身、松山高等商業学校設立に尽力されたそうです。
亡くなってから勲一等旭日大綬章が追贈され、犬養毅など政治家や外交官、地元の有力者で構成される拓川会から「拓川集」が出版されるなど、信望の厚い人だったようです。
拓川は冗談を言うことが好きで、分け隔てなく交友関係を広げることが出来る「人との繋がりで生きる」人だったと伺いました。
私は正岡子規と何処か共通したところがあると思いながら、一人で納得していました。
加藤拓川がこの時代に生きていたら、上手な人付き合いの極意を教わりたいなと思った私です。
【毎日がバトル:山田家の女たち】
《愛媛松山は凄い人が居ったんよ》
※92歳のばあばと娘の会話です。
「そのお話を伺って良かったねー正岡子規のおじさんと言う事は知っとっても、私はそこまで知らんかった、ためになったよ、今の時代にも愛媛から時代を動かす人が出てきたらええのにねー」
「お母さん、私も明治の時代の愛媛松山は凄い人たちが活躍しよったんじゃと思たよ」
「それを語り継がんといかんねー」
その通りだと思いました。知ったところから伝える。今日もこうして記事に記しています。
最後までお読みいただいてありがとうございました。
たくさんある記事の中から、私たち親子の「やまだのよもだブログ」にたどり着いてご覧いただき心よりお礼申し上げます。
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