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何故、こんなに自己啓発が流行るのか?

 右を見ても左を見ても、自己啓発ばかりだ。「哲学」と言えば、大抵は自己啓発が変装した姿であって、まともな哲学書というのは探さなければ見つからない。
 
 どうしてこんなに自己啓発が流行るのだろうか? 答えは簡単で、人間が神になったからだ。近代以降そうなったからだ。
 
 ところが、ここにも細かい変化がある。人間が神になる事と、人間であるそれぞれの「自分」が神である事は微妙に違う。
 
 「偉大なる近代」という名がふさわしい哲学者ヘーゲルの哲学は、人間の精神が神を越えた事は示していても、人間そのものが神であるとは言っていない。言い切っている、と言えなくもないが、ここには微妙な線引きがある。
 
 ヘーゲルよりも後の哲学者ニーチェは、現代人が好きな哲学者だ。ヘーゲルはあまり駆り出されないが、ニーチェはしょっちゅう冥界から召喚される。
 
 ニーチェの哲学は、ヘーゲルのものよりもはるかに「自己啓発」に近い。ニーチェの生の肯定を、今生きている私達が「ニーチェは自分達を肯定してくれている!」と考えれば、ニーチェはすぐに自己啓発的なものとなる。
 
 もっとも、ニーチェ本人は、自己啓発をも、現在の大衆をも、もし知る事ができたら忌み嫌ったのは確実だと私には思われる。ニーチェはこれらの人を「末人」と呼んで軽蔑しただろう。しかし死人に口無しだから、ニーチェだろうが小林秀雄だろうがゲーテだろうが、現代人の応援団として冥界からやたら召喚されてくる。
 
 話を戻すと、どうしてこんなに自己啓発が流行るのかと言うと、「自己」が神となったからだ。それぞれの卑小な自己が絶対視されて、それぞれに利害を押し付けあっている。
 
 権左武志の「ヘーゲルとその時代」という本は非常に勉強になった。ヘーゲルやカントを代表とする近代の思想家は、神という権威が消えた後に、人間だけでいかに秩序ある世界を作ろうとしたのか、いかにそれに尽力したのかというのが、この本を読んでよくわかった。
 
 カントやヘーゲルといった人達の時代にはまだ、人間というものはどこか客体的なものだった。あるいは客体的なものを含んでいた。私の考えでは、「人間」という概念が、客体的なものから主観的なものへ転向し、大衆が自己を神格化して、現在のような世界になったのだと思う。
 
 一つ例をあげる。ヘーゲルはある時、馬に乗ったナポレオンを見て「世界精神が馬に乗っている」と言った。
 
 これはヘーゲルの歴史哲学の中核である世界精神が、ナポレオンという姿形で馬に乗っている、という事だ。
 
 「世界精神」とは、歴史全体を引っ張っていくものだと考えられており、これは世界史を支配しているものであるが、世界史を越えているものとして想定されている。あえて言えば、このヘーゲルの思想は宗教的、神学的と言ってもいい。
 
 ここでヘーゲルはどういう視点でナポレオンを見ているだろうか? ヘーゲルはナポレオンという人間に、歴史を率いる巨大な精神の姿を見て取っているが、それはナポレオン本人の意識や恣意を越えたものである。
 
 ここでは、ナポレオンという個人が単なる個人ではなく、超越的な「世界精神」という現象と関連付けられて見られている。
 
 ヘーゲルがそう語ったかどうか私は知らないが、ナポレオンの晩年の没落は、ヘーゲル的な視点からは、「世界精神」がナポレオンの体から離れていった、と考えられるだろう。歴史は自らを前進させる為にナポレオンという個体を召喚し、その中に潜り込んだが、ナポレオンが用済みとなると、もうナポレオンはセントヘレナで孤立して死ぬしかなかった。
 
 私がこうした例をあげて言いたいのは、ヘーゲルにおいては、ナポレオンという個人の自我や恣意が絶対ではなく、ナポレオンに乗り移った「世界精神」が絶対だった、という事である。ここには微妙な違いがある。それは、ヘーゲルが絶対視しているのはナポレオンという個人ではなく、ナポレオンを突き動かしている客体的な世界精神だ、という違いだ。
 
 しかしヘーゲルのこの微妙な区別は次第になくなっていった。
 
 私はこの区別が消えた現象として、狂気に囚われ、精神廃疾者として死んでいったニーチェを考えたい。
 
 ニーチェは「超人」という絶対的な存在を一つの哲学として案出したが、狂気にとらわれる直前の「この人を見よ」という著作では、「超人」という客体的な概念が、主観的な、「自分自身」、要するにニーチェそのものへ少しずつ変質していっている。
 
 完全に病んでしまったニーチェにおいては、もはや超人という観念は、ニーチェ本人と完全に一致してしまっている。私はここで、近代の哲学の物語の一つが幕を閉じた、と考えている。
 
 デカルトの「我思う故に我あり」という自我の存在の確実性を根拠に進んでいった近代哲学は、最後には自らを神だと勘違いしながら滅んでいくニーチェ個人という姿へ結実した。それはしかし「絶対」という観念を冠せられたものが、この地上で歩まざるを得ない必然的な悲劇と言えるだろう。
 
 現代に目を転じると、私はこのニーチェの姿が、至る所で繰り返されているのではないか、と思う。私はこれを「ニーチェの呪い」と勝手に読んでいる。
 
 それは自らを絶対者だと勘違いしている人間が辿らなければならない必然的な道筋だ。彼は、自分を神だと勘違いしながら、人間以下になって滅んでいく。
 
 現代の自己啓発は、ある意味でこのニーチェの姿を繰り返していると言ってもいいだろう。しかし人々は、ニーチェのような巨大な精神力を持たないから、小さな成功と小さな挫折を繰り返すばかりで、ニーチェのような悲劇には至らない。
 
 自己啓発は人々が自我を絶対視しており、なおかつその事を意識する事もできない故に発生する。こうした無数の人々は自己を高め、自己を絶対化しようとして、その為に様々なものを利用しようとするが、最後にはその自己は幻想だったという事実に直面し、死んでいく。
 
 自己啓発はだから、中世の神が変形した姿だが、自我を絶対視する悲劇は既に近代の知識人や英雄において十分に演じられており、後に残ったのは群衆がそれぞれの自我を肯定し合いながら励まし合う、というゲームである。このゲームが大流行する限りにおいて、自己啓発は、人々の自己を励ますものとして主流であり続けるだろう。
 
 しかし、それらが一体、どのような帰結を持つのかも既に歴史は回答を与えてくれている。神になろうとしたナポレオンがどうなったか、自らを神としたニーチェがどうなったか。

 もちろん、我々はナポレオンやニーチェのように巨大な存在ではないから、彼らの演じた劇を遥かに小さいスケールで繰り返すだけだろう。自己啓発は、こうした小さなドラマを進行させるうえで大いに役立つ代物として、現代の人々に役立っている。最後には自らの幻想と出会うためには、その幻想はある程度の大きさにまで膨らませなくてはならないから。

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