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M・ストープス『結婚愛』(1) 女性による性の手引書?【禁書を読む】

「聴くな」と言われると、耳をそばだてたくなる。
「しゃべるな」と言われると、口を開きたくなる。
人間のさがだろう。
読書でも同じこと。「読めない」となると、内容が一層知りたくなる。
 
歴史上、時の権力や法律によって発行や閲覧、所持が禁じられた本が数多くあった。それが禁書(発禁本)だ。どんな理由でどういう出版物が「禁止」になったのだろう。
今の時代にそれを振り返ってみることにも、何かしらの意味はあるかもしれない。

まずは、大正時代に「風俗壊乱」を理由に発禁処分を受けたイギリス人女性の書籍を取り上げてみたい。

伏字交じりで刊行されベストセラーになった

マリー・ストープス。
その名は日本ではさほど知られていないものの、イギリスではフェミニズムの先駆者として、とても著名な人物だ。英ガーディアン紙が1999年に行った「1000年を代表する女性」の読者投票では堂々のトップに輝いている。
1918年、その彼女が37歳のときに「イングランドを震撼させる」という覚悟をもって世に問うたのが、夫婦の性の大切さを説いた『結婚愛』だった。

イギリスでもまだ女性の社会的権利が十分に確立されていなかった時代。『結婚愛』は、一部から「売春の手引書だ」などと激しい攻撃にさらされながらも、第二次世界大戦までに100万部が売れ、13か国語に翻訳された。
日本では1924(大正13)年に発禁処分を受け、刊行されたのは随所に伏字が施された改訂版だったものの、大いに注目を浴びてベストセラーになった。

日本でも海外でも、多くの読者の関心は下世話な方に向いていたかもしれない。しかしマリーにとって、そんなことはどうでもよかった。
彼女は、女性にとっての性欲や性行為の意味を、あくまでも生真面目に考えたかっただけなのだ。 

性をタブーにしているがゆえの不幸を説いた

『結婚愛』の発刊は1918年3月。第一次世界大戦が終結する8か月前のことだった。イギリスでも女性の社会的地位はまだ低くみなされ、女性参政権はこの年の初めにようやく、30歳以上に限って認められたばかりだった。

「性」に関しても、男性同士が猥談を交わすことはあっても、そこにちゃんとした身分の女性が加わることなど、まず考えられなかった。もちろん、女性にも性衝動があるなどという「常識」はどこにも存在しなかった。
マリーは『結婚愛』の序文でこう書いている。

本書の目的は、結婚生活の喜びを増し、どのようにしたら多くの悲しみを避けられるかを示すことにある。(中略)特にこの国〔イギリス〕の中産階級においては、結婚生活は、外見は幸福に見えるかもしれないが、実際にはあまり幸福なものではない。喜びを求めて結婚し、ひどく失望する者は非常に多い。(中略)彼らの不幸は「結婚のもつ束縛」から始まるのだと思っているが、実際にはそれは彼ら自身の無知にあるとは気づかない。 

『結婚愛』マリー・ストープス著、青山節子訳 鶏鳴出版

「彼ら自身の無知」とは何についての無知か。
もちろん性知識の無知のことだった。
世の男性連中は言うまでもなく、女性たち自身が自分たちの身体や性について、いかに、何も知らないままに育ち、結婚していくことか。
本の中でマリーはしきりに嘆く。男性も女性もともに「性知識をタブーとするような愚かな社会風習の犠牲者」であると。

マリーはまず、結婚という行為は伴侶を求める自然な欲望であるとして、それは「自分とは異なった体の中に宿っている、自分を理解してくれる心を探すということである」と説明する。
そして、愛する者同士の肉体的な結びあいによって「孤独な魂では決して到達することのできないような人間的共感の地平線が広がり、精神的にも理解力の輝きが現れ出てくる」と、愛が生み出す力を賛美する。

ところが、こうした素晴らしい力を削いでしまうのが、互いの性に対する理解の欠如にほかならないという。
女性は性生活において喜びを得られていないことを夫に隠し、隠しているというそのことによってさらに苦しむ。
一方、男性は妻が時折、不可解なほど冷ややかであったり強情になったりすることを「女性は気まぐれだ」ととらえ、それに我慢できなくなっていく。
現代でも、よくありがちなケースだろう。

マリーは、だからこそ若い男女は「愛の術について謙虚に学ぶ」ことが必要だと説く。そしてまず、女性には月経と密接にかかわる性衝動の周期性があることを知るべきだと強調する。

女性には周期的な性の潮があり、もしその指示にしたがえば、女性の喜びと健康と生気を確実に増すだけではなく、女性が気まぐれだという神話を打ち破るのだが、こうしたことは気づかれていないようである。我々人間は水や音や光の波長について学んできた。しかし、一体いつになったら人間は女性の性の潮について学び、女性の欲求の循環的周期性の法則を知るのだろうか。

 『結婚愛』

 詳細な描写が喝采と糾弾を浴びた

そもそもマリー・ストープスとは何者だったのか。
彼女は1880年にスコットランドのエディンバラに生まれた。
シェイクスピアの研究者である母親の手で謹厳に育てられ、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンからミュンヘン大学へと進んで植物学の博士号を取得する。専門は植物の化石研究だ。
つまり、彼女は植物には詳しかったものの、医者でもなければ、性の専門家でもなかったわけだ。

『結婚愛』には、月経周期と性衝動の連関を記した考察がグラフ付きで掲載されているが、これは、彼女自身のセルフチェックや友人らの聴き取りに基づいて作成したデータだった。
統計的には正確さを欠いたきらいもあろうが、当時はまだ、ホルモンという言葉さえようやく誕生したばかりの時代。その内容は極めて革新的なものだった。

「性衝動を持つのは堕落した女性であり、清潔な女性には関係のない話」という、社会に蔓延する通念を思うざまに否定したうえで、マリーは、男女の性に関する客観的で詳細な描写に移る。
なぜなら、両性が満足し合うためには互いの生理について正しく理解しておかねばならないからだ。 

結婚する男女はすべからく次のことを知るべきである。男性の性器官は、生きて動いている繊毛のある細胞、つまり精子、を生じる組織、及び精子がそこを通りぬけるところのペニスから成る。精子はペニスを通って女性の膣へと送られそこに付着する。女性の膣の導管の外側には、二つの陰唇でおおわれている口があり、それは普通、勃起したペニスが入れるくらいの大きさである。

結合の行為とは実際にはどのようなことか。これは知っておかなければならない。―予備行為[いわゆる前戯]が二人をかきたてた後、刺激されたペニスは膨張し硬直し、女性の膣へと入っていく。この導管の入口は、女性が刺激されていない普段には、その導管を囲んでいるやわらかい組織からなる陰唇と同様に、乾き、どちらかといえば縮んでいる。そして、膣の入口は男性の膨張したペニスに比べて小さいのである。しかし、女性がいわば生理学的に膨張した時(つまり結合の準備が整い、深くかきたてられている時)には、局部は内部の血液の供給によって紅潮し、ある程度男性の局部と同じように膨張しており、粘液が分泌し、膣口はなめらかになるのである。

ともに『結婚愛』

「猥褻な性の指南書だ」「汚らしさに吐き気がする」「不道徳だ。品位を疑う」―。『結婚愛』に対し、イギリス国内では反発が広がり、マリーのもとにも非難の手紙が届いた。
しかし、彼女の生涯をつづった『性の革命』によると、そうした声は「驚くほど少数」で、大部分は彼女に喝采を送るものだったという。
マリーは若い女性たちの新たなヒロインになったのだ。 

1918年8月、マズウェルヒルに住むA・J・Cなる人物の手紙にはこうある。「私もまたあなたの本に感謝している多数の読者の一人です。私たちはあなたの本、『結婚の愛』のおかげで生きていることを実感できるようになりました。読後…すべては一変致しました」

『性の革命―マリー・ストープス伝』
ジューン・ローズ著、上村哲彦・立本秀洋・松田正貴訳
関西大学出版部


長年にわたる偏見や迷信を打破した

『結婚愛』が大成功を収めた理由として、『性の革命』を書いたジューン・ローズはいくつかの要素を挙げている。
まず何よりも、女性にも性的欲求と性的権利があるというマリーの訴えが、何世紀にもわたる偏見と迷信、宗教教育に挑戦状を叩きつけるものとして、多くの女性の共感を得たことだった。
女性たちはこの本によって、肉体的な欲望を抱くのは恥でもなく罪でもない、私たちも性衝動を持つ権利がある、とはじめて理解できたのだ。

第二には出版のタイミングだ。
第一次世界大戦によって若い健康な男性が軍役に駆り出されたことで、当時、イギリスでは労働力不足が深刻になっていた。
やむをえず女性も配管工やバスの車掌、トラック運転手、職工などとして働くようになり、これが女性にも「男の仕事」が可能だと証明する機会となった。
つまり、社会の中での女性の位置づけが大きく変化しつつあるさなかであり、その時流に乗るかたちとなった。

さらに、大戦中に性病が蔓延したことも影響したのではないかという。
性倫理に対する危機感から、健全な夫婦関係を築くことがそれまで以上に望まれるようになった。
『結婚愛』はその際の道標の役を担ったという見立てである。
 
もう一つ付け加えるなら、マリー・ストープスという個人の性に対する関心が、本の売り上げにひと役買ったことも間違いない。
『性の革命』には「筆者が処女妻であるという宣伝文句が広まった」との記載がある。
そう、マリーは『結婚愛』を出す2年前に離婚していた。
そして、高等法院に提出した離婚申請書には、夫について「婚姻生活を完成させる能力がなく、この行為能力の喪失は治癒不可能」と記していたのだ。

(2につづきます)


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奈能利想
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